≪解 説≫
茂原市立美術館学芸員 舛田 隆満 |
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石井公男といえば、すぐ谷川岳が浮かぶほど、山の印象は強いと思う。山岳画家とでもいうべきであろうか。作者の足跡をたどると、初期には抽象的作風の時代、山岳や湿原風景の時代、次に鳥の時代、そして再び山岳の時代…と意外にも多岐に渡っている。この変遷を追いながら、その姿に迫ってみたい。 作者は1938(昭和13)年、長生郡豊田村(現茂原市長尾)の農家の次男として生まれた。父重男は、号を豊洞(ほうとう)と名乗り、農業のかたわら書をよくしていた事は作者に少なからず影響を与えていたことであろう。 だが本格的に画家を志すに至るには、長生第一高等学校(現県立長生高校)で洋画家石井光楓(こうふう)の指導を受けたところによるものが大きい。高校卒業後には、光楓の計らいで、日展審査員をつとめていた日本画家吉田登穀(とうこく)と出会うところとなり、その紹介により、1957(昭和32)年、松林桂月(けいげつ)の内弟子となった。 また、作者は谷川岳、白馬、穂高、苗場、剣岳、立山など多くの山岳を登山しているが、そのきっかけも高校時代に尾瀬へ行った事であるという。若き日に画家が受けた影響がいかに大きいかを物語っているといえよう。 やがて作者は、内弟子として世田谷の桂月邸内に住まいながら、日展への出品を始める。1961(昭和36)年、初入選の『池』、翌年入選の『遥影』(ようえい 作品番号1)は、水面の波紋を題材として、光と色彩の交錯する様子を抽象的に捉えている。やや前衛的な画面からは、作者の若かりし意気込みが伝わってくるかのようである。 1963(昭和38)年、桂月没後、奥田元宋(げんそう)に師事して以降は、磐梯、上高地といった自然を描写した作品が多く見られるようになり、特に1975(昭和50)年第7回 日展の『高原の湖』(作品番号2)に瑞々しく描かれた水辺の植物からは、アンリ・ルソーの描く植物のような大胆な生命感が感じられ、自然感あふれる作品となっている。 その後は、人物画をも手掛けている。本展覧会では紹介できないが、1980(昭和55)年第12回 日展の『漁夫』は、当時作者が在住していた長生郡一宮町東浪見での取材によるものである。 やがて尾瀬などの湿原を描きながらも画中には鳥類が出現し始める。1984(昭和59)年第16回 日展の『尾瀬にて』(作品番号5)、翌年の日展の『沼』(作品番号6)には、ゴイサギが、第19回 日展の『午』(ひる 作品番号8)では、白鷺が描かれるとともに色彩的にも作者の意識の転換が見受けられる。やがて主題は鳥へと移り、第20回日展の『黒鳥』(こくちょう 作品番号9)では、鳥の形態を造形的に捉える制作へと至っている。 再び山岳風景を題材とするようになったのは、1991(平成3)年、千葉県君津市の亀山湖を描いた第26回目春展の『残照』(作品番号12)以後であり、この時期から作者は傑作を次々に生み出している。師元宋の作品を彷彿させる朱色の印象的な第24回 日展の『妙義』(みょうぎ 作品番号14)、臨場感に満ちた第26回 日展の『谷川岳』(作品番号18)、第30回 目春展日春賞受賞の『谷川岳』(作品番号19)、第27回 日展特選受賞の『谷川岳』(作品番号20)などである。作者が『谷川岳の厳しい山容に感激し、制作を思い立ちました。自然の偉大さ、荘厳さの表現は難しく、春の芽生えを秘めた冬の厳しさに苦労しました。』と語っているように、自然への畏敬の念が伝わってくるようである。 1997(平成9)年、2度目の特選受賞作となった第29回 日展『待春』(たいしゅん 作品番号25)では、山全体ではなく雪解けに的を絞った画面全体の白さが印象的である。そして会員となってからは特に滝をテーマとし、堂々たる瀑布を描き上げた。最新作である第35回 日展の『飛泉』(ひせん 作品番号35)は、三重塔を連想させるかのような滝の形にリズミカルな魅力がある。 2000(平成12)年の新審査員を経て会員推挙へと至っているが、作者がこれまでに描き続けた道のりは、まるでコツコツと登山をするかのような地道な創作姿勢であった。この姿勢と、一貫した大自然への敬虔な想いが、作者を山岳画家という印象に至らしめているのではないだろうか。 |
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