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アクロポリスの丘の歴史
 
 
 
 

○ このようにして ペルクレスは自分の意図と計画とについて その協力者たちと討議した。それはアクロポリスの丘全体を 華美に飾り立てようとする目論見であって、一つだけ完全にはっきりしていることは、その中で一番最初に造営すべき神殿は、守護女神であるアテ−ナ・ポリアス女神の神殿 つまり<パルテノン神殿>であるということであった。

○ この神殿はドリア式スタイルを採っていて 大理石で出来ており、寸法の大きさと華麗さとでは 他のどの神殿にも勝るものでなければならなかった。建築家のイクテイノスが図面を作成し、カリクラテスがプロジェクトの請負人としての仕事をし、フイデイアスは アテネで一番立派な彫刻家たちと協力して その装飾の面倒を見るということで合意された。併しその実態は プルタ−クがペルクレス伝で述べている通り <その作品はどれもこれも 第一級にランクされる芸術家たちの創作品ばかりではあったけれども、この建造物全体を総合的に監督したのは フイデイアスであった。>ということである。

○ 第三番目のパルテノン神殿の造営

○ 処女女神に献げた アテ−ナ・パルテノス本尊を祭る新しい神殿として この第三番目のパルテノン神殿をアクロポリスの丘の上に造営する工事は B.C.447 年に始められた。アクロポリスの丘の上の略々中央の やや南側寄りの丘の最高部の区画に この神殿が建立された。この様に大きい建造物を立てるために 必要な広さを持ったプラットフオ−ムを 先ず第一に作らなければならなかった。第二番目のパルテノン神殿は 着工され始めた時点で ペルシャ軍の手にかかって すっかり燃え落ちてしまっていたが、この神殿の多孔性石灰石で出来た土台石が、今回の建築に利用された。プラットフオ−ムを 水平になるよう調整するための基礎工事が、南西方向に向かって 10.67 m.の深さにまで達しており、神殿の北側の区画だけが アクロポリスの丘の岩石の上に 直接に建てられた。この新しい神殿は、その前にあった第二番目の神殿と 略々同じ寸法の大きさのものであって、幅は幾分より広いけれども 長さの方はとても同じ長さにまでは到らないものであった。

○ 彫刻家は自分の作った彫像を 台座の上に据え付けて、眺める人の眼を上の方に引き寄せていたが、古代の人々も同じように <クレピドマ klepidoma>(訳注 304)と呼ばれる 一段と高い基壇床を作って、その上に神殿や神王の住居を建てた。B.C.6 世紀の初頭以降建てられたどの神殿もが 決まって採っていたスタイルが ドリア式であったのは、このスタイルの持っている簡潔さと その著しく静的な特性の故であった。<かくして建造物は今や その美しさと形の高貴さとにおいて 比類のない誇るべき極致にまで 昇りつめた。工匠たちが 芸術として実現してゆく中で そのオリジナルな創造理念以上に出ようとして お互いに張り合ったからのことである。>と プルタ−クは述べている。<すべてのものが進行してゆく その速度が、極めて特異な驚きを惹き起こした。これらの三つの建物のどれ一つを取っても 建築するのに数世代を要し、大変な労苦が懸かるものと考えられて来た。ペルクレスの持つエネルギ−だけが すべての人を鼓舞し、このように短い期間内に このように欠点のない完成へと導いていったのである。>とも述べた。そして B.C. 438 年の大パンアテナイア祭の開催中に この大きい神殿或るいは名付けられた通りの単なる奥の院の <ナオスの建物 NAOΣ>(ずっと後になってパルテノン神殿として知られるようになったに過ぎない。)が フイデイアスの作った アテ−ナ・パルテノス本尊の象牙と金の彫像と共に、この処女女神に奉献されたのである。破風とフリ−ズ(帯状装飾)の飾り物は、B.C.432 年になるまで完成しなかった。

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