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アクロポリスの丘と丘の麓の周辺
 
 
 
 

○ この聖なる丘の西側にある峻しい縁が ほっそりして気品のある稜線で美しく飾られ、入口門のプロピュライアと一緒になって アクロポリスの丘に到る入り口を飾り立てている。近年の道路は この聖なる道のコ−ス沿いに作られている。この昔の聖道も亦舗装されていて、犠牲に供せられた夥しい数の動物を伴った パンアテナイア祭の行列が この道に沿って前進して行ったのである。その頂上に達するとそこで通り過ぎるのは プロピュライアの入口門であり、その内面の円柱は半分がドリア式で、残る半分はイオニア式の円柱である。そしてとうとう アクロポリスの丘の聖域の構内に到達するのである。

○ エレクテウム神殿

○ 最後にイオニア式のスタイルで造営されたのがエレクテウム神殿 the Erechtheum(訳注 044)であって、この神殿は 嘗てアテ−ナ女神とポセイドン神との複合神殿のあった その場所に造営されたものであり、この二つの神に奉献されたものであった。併しこの場所は又 アテネの創始者のエレクテウスErechtheus(訳注 045)とケクロプス Cecrops(訳注 046)との 墓地の用地ともなっていた。

○ イオニア式のスタイルをした 優雅なこのエレクテウム神殿は パルテノン神殿の男らしくて力強い形体との間に 著しい対照を形成している。この神殿はアクロポリスの丘の北側にあり パルテノン神殿の左側に位置していて、パルテノン神殿に向かい合った側では 流れるような長い下着のキトン chiton(訳注 047)を着た力強い 6 人の乙女が 神殿の南西にあるポ−チの屋根を 自分の頭の上に支えている。このカリアテイ−ド Caryatids(訳注 048)のある 優雅なポ−チ porch(訳注 049)だけが、この神殿が元は 豪奢な構成を持ったものであったことの ぼんやりとした微かな見当を付けさせているのである。

○ クラシカル期 Classical(訳注 050)に この岩丘を飾り立てていた建物とか 奉献の供え物とかは 他にも沢山あったが、その中では 例えばアルテミス・ブラウロニア女神 Artemis Brauronia(訳注 051)の祭域とか カルコテカ the Chalcotheca(訳注 052)などといったものが、ただ痕跡をとどめているだけに過ぎない。ロ−マ年代には アウグストス帝 Augustus(訳注 053)とロ−マ Rome(訳注 054)とを祀った小さい円形の神殿が付け加えられたが、今では残っていない。 1852 年に見出した フランス人の考古学者の名を取って付けられたブ−ルの門 Boule(訳注 055)も亦 プロピュラエア入口門の南面に付け加えられたものである。

○ アクロポリスの丘を展望した時に 眼前にそそり立って見える城壁がこの丘の砦であって、ペルシャ戦争 Persian War(訳注 056)が終わった後の B.C. 5 世紀前半に出来上がったものである。併し今日ここに見られる最終的な形状は 中世からトルコの占領期間にかけての年月の間に出来上がったもので、その間にこの城壁は 幾度も破壊されては修復されて来ており、更にその後にも復元作業が行われている。

○ この丘の頂上にある 白い大理石の記念建造物を直接目にしようとして 夥しい数の観光客が、大なり小なりの期待感覚をもって 連日この聖なる丘に登攀して来る。プロピュラエアの入口門、翼のない勝利の女神の神殿、エレクテウム神殿及びパルテノン神殿といった建造物が、恰も全くの岩そのものに植え付けられたものであるかの様に そこに建っているが、その昔の栄光は今日では 最早殆ど見られることはない。今では剥き出しになって 廃墟の姿になり、内部にあった夥しい量の塑像の飾りも彩色の装飾も 殆どすべて無くなってしまったこれらの神殿は、年代の経過と天候という 二つの齎らした荒廃をものともせず立ち向かって、今でもその土台の上に しっかりと立っている。凡そ 2500 年許りが経過する間ずっと苦しめられて来た こうした野蛮な破壊行為を受けたにも拘わらず、今日でも尚嘗ての輝かしい栄光の一部を撒き散らすことが出来るのである。

 

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