○ こんな風にして B.C. 5 世紀の半ば 恐らくはペルシャ戦争の直ぐ後のことに違いないが、デイオニソス神の劇場の区画には 次のような改造が施された。凡そ 100 年前に平らにされた円形の区画には 今や直径 20 m.にも及ぶ敷地があり、周りを排水路が取り巻いている。オ−ケストラを見下ろす位置にある斜面上には 観客が娯しむために 木製の屋外観客席が建てられ、質素な木製のスケ−ネ( page 37,図 01 - No.7)の土台が置かれた。このスケ−ネは、俳優が直ぐに出演して 演技をするのに必要なものである。この木製の<スケ−ネ>は 矩形のストア(列柱歩廊)の背面に沿って建てられた。ストアのあった位置は 祭域の中にあり、デイオニソス・エレウテレウス神の年代の古い方の神殿と バッカス賛歌の熱狂的な合唱の踊りの演技をするために平らにされた区画との間にあった。
○ エスキュロス Aischylos(訳注 497)、ソフオクレス Sophocles(訳注 498)、エウリピデス Euripidesという偉大な悲劇作家 3 人及び 喜劇作家のアリストフアネス Aristophanes(訳注 499)の脚本が、 この型の劇場で演出された。
○ ドラマの筋<ドロメナ dromena>と直接繋がっているので、劇場の歴史の発展を研究するに当たっては、このスケ−ネの構造は その最も重要な要素であると考えられている。
○ デイオニソス神の劇場の構成が このように<オ−ケストラと 観客席の意のカヴェア cavea(訳注 500)と スケ−ネ>という三部から成っていて、新しい年代のこうした配列は、言い換えれば 次の基本要素を内に含んだプロセスが、相互に関連を持って繋がって来ている 表情と演技と解決という窮極の制作物なのである。
a) 高貴な人間の送るデイオニソス祭のお告げ。
b) この神の神聖な聖所の内にある この選ばれた区画で、マスクを着けた俳優と踊 る このバッカスの賛歌の熱狂的な合唱の踊りの着想と その宗教的な性格。
c) 観客とも その区画の状態とも関連があった通り、この出し物が要請していた純 粋に実際的な解釈に当面していること。
d) 最終的には この神の祭礼とか 美学的な信念と時代の要請とに及ぼしている その影響といったものから、悲劇がだんだん遠くに離れていっていること。
○ B.C.5 世紀の初めになると、劇場の図面に変更を加えたり 劇場を改造したり 色々干渉したりするようになり始めていて、これは B.C. 3 世紀まで続いた。スケ−ネに加えられた変更が回数も多かったし 一番決定的な変更であって、B.C.5 世紀には 簡素な木造の構造のものであったものが、B.C.4 世紀には 大きい長方形の建物から成るものとなり、 49.5 x 8 m.の面積を持つ 主たるスケ−ネの両端には 左右対称の<パラスケニア paraskenia(訳注 501)>と呼ばれる スケ−ネの両翼の四角い区画が二つ付いており、前面には 俳優たちの入口の役目をする<プロスケニオン proskenion(訳注 502)>が付いていた。このスケ−ネが始めて建てられたのは B.C.421 - 415 年のニキアスの和平の年代のことであった。オ−ケストラとカヴェアとは B.C.6 世紀までに身に付けた 自分の形態を守って、その本質に決定的な変更を 余り沢山受けることがなかった。
○ B.C.330 年という年は リュクルゴス Lycourgos(訳注 503)がアテネのアルコンであった年に当たるが、デイオニソス神の劇場の歴史とその展開の中でも 画期的な意義を持つた年である。この年に木製のベンチすべてが 実際に石の観覧席と取り替えられて カヴェアがその最終の形を採ることとなったのであり、一方デイオニソス神の聖地の周りには 同時に特別な囲みが建てられて、この神の社を劇場から分離し 遠ざける構成となった。偉大な悲劇作者たちの中で メナンドロス Menandros(訳注 504)だけが、 16.000 人の観客を収容した大理石製の劇場で その演劇を披露した。
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