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アクロポリスの丘の上の記念建造物
 
 
 
 

○ 神殿の東端面のメト−ペのテ−マは オリムポス山の神々がギガ−ス族と戦っている ギガントマキアの場面であり、アテ−ナ女神が この場面での主たる勝利者であった。西端面のメト−ペのテ−マは アテネの人々とその英雄テセウスとが アマゾン族と戦って勝利を収めているというものであり、南側面に見られるのは ケンタウル族がラピテス族とアテネの人々との連合軍と戦っている場面で、ここでも テセウスが現われている。北側面のメト−ペの統一テ−マは トロイ戦争であった。

○ ペンテリコス山から新しく切り出された大理石は 余りにも白くて 光沢があり過ぎた。そこで 建物の上部の余り重要でない部分には 濃紅や青、所によっては黒や金色の彩色を施して その光沢を和らげるようとしたのではないかと思われる。浮き彫りの背景は 赤で、浮き彫りを一段とはっきり目立たせるのに役立っていた。今日でも これらの彩色の跡が幾らか残っている。パルテノン神殿には 他にも絵画の装飾もあったが、長年月の間に消えてしまって、今では 色彩の跡は このメト−ペの浮き彫りに残っているだけに過ぎない。

○ 古代の後期になって このパルテノン神殿がキリスト教の教会に変えられた時に、東面と西面と北面とにあったメト−ペの浮き彫り像は 意図的に破壊されてなくなってしまったが、南面だけは 明らかにこの建物の背面であると見做されたお蔭で、この破壊を受けるのを免れた。その後この南面のメト−ペも ヴェネチア Venetia(訳注 415)軍の総督モロシニが  1687 年にトルコ軍を包囲攻撃した時、神殿の中にあった火薬庫が爆発して その中央部が吹っ飛び、大きいダメ−ジを蒙った。その時に完全に毀われてしまったメト−ペは別としても、残ったものも表面の質の低下がひどく進んでいて その輪郭を識別するのが難かしくなって来ており、西面もそうであるが 東面のものは特にそれが目立っている。南側面のメト−ペの保存状況が一番良く、その内の 1 つは 神殿の南西のコ−ナ−のもとの位置に、3 つは アクロポリス美術館に収蔵されているが、その残りの 20 ケ許りは  19 世紀初めにエルギン卿がロンドンに運び去って、 1816 年以降 大英博物館に展示されている。北側面のメト−ペも 11 ケが そのもとの場所に残っているだけに過ぎず、残りは モロシニの爆発の時に毀われてしまった。

○ 両破風とその彫刻群像

○ 大理石のタイルで出来た屋根が 南北両面に向かって斜めに傾斜して付いているため、東西の両端面では 水平に走っているコルニス(軒蛇腹)の上で 屋根の対になったこの勾配が テユムパナム(三角小間)と呼ばれる 二等辺三角形の大理石板で覆われた破風の三角面を作り上げている。このテユムパナムの長さは 28.35 m.で 中央の所での高さは 3.45 m.であり、奥行きは 91 cm.であった。両破風に付いている作品は どちらも長さが 28 m.で、中央に立っている人物像の背丈は 等身大よりずっと大きくて、凡そ 3 m.であった。

○ 両破風の彫刻の装飾が完成するには B.C.437 - 432 年の 5 年間を要したが、これがパルテノン神殿に施された作業の最後となるものであった。B.C.433 年までの間は フイデイアス自身がそのデザインの責任を持っていたと見られている。この両破風に示されているテ−マは どちらもアテ−ナ女神に関する神話から採って来たものであり、特別にロ−カルな この地方特有の性格と意味を持つものであった。この 2 つの作品の中に含まれる人物像の数は 50 を超えているが、その内現在残っているのは  11 程の人物像と馬の頭部像の幾つかだけに過ぎない。モロシニの爆発の時に やっと被害を受けるのを免れたこれらの彫像はすべて エルギン卿がかっ攫らって行って、今では大英博物館に収蔵されている。

○ この神殿の公式の入り口は東正面であって、その上に被さっている東破風には、アテ−ナ女神の奇跡の生誕の場面が 神々しい威厳に充ちて描写されていた。主要な人物像 2 つがお互いに向かい合って立ち、この作品の中央を占拠している。ゼウス神は左側で王座に腰掛け、左手には笏を 右手には雷霆を持っており、その前にはゼウス神と向かい合って たった今父の頭から生まれ出たばかりのアテ−ナ女神が 完全武装して嬉しそうに立っている。女神の後ろでは ヘパエストス神が全力を出し尽くしていて、この神は裸で立ち 今使用した許りの斧を未だ手に持ったままで描かれている。

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