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アクロポリスの丘の南斜面上にある建造物
 
 

(訳注 046) ケクロップス Cecrops
伝説的なアテネの初代の王である。大地より生まれたとされ、屡々腰から下は大蛇の姿をとっている。アテネのアクロポリスを築き、アッテイカ地方を 12 の部に分け 一夫一妻制、葬礼、神々の崇拝、文字を教えるなどの 文化的活動をしたとされる。エレクテウム神殿の西南部に 彼の墓所があった。

(訳注 047) キトン chiton
古代ギリシャの衣服。通常は麻か木綿製で 直接肌に纏い、ペプロスと異なって縫い合わせてあるのが 特徴である。長方形の布の一部を折り返し その折り返しを外側にし、イオニア式とドリア式とで若干の相違がある。

(訳注 048) カリアテイ−ド  caryatid <女人像柱>
西洋建築で上部構造を支える柱の代わりに用いられる 人像彫刻の総称である。デルフイのシフノス人の神庫の 2 柱は B.C. 6 世紀に作られた最古の例であり、アテネのエレクテウム神殿のものは B.C. 5 世紀に作られた現存の代表的なものである。

(訳注 049) ポ−チ porch
ラテン語のポルテイカス porticus から出た語で、元来は門、入口、通路の意である。建物の本屋根とは別の庇を持ち、壁体から突き出ている建物の入口を言う。ポルテイコ portico(訳注 369)と同義にも用いられる。

(訳注 050) クラシカル期 Classical
ギリシャ芸術がその調和的 理想的形式を完成させた B.C. 450 年 -320 年頃を言い、その前半を<崇高な様式>の盛期クラシック、後半を<優美な様式>の後期クラシックとして区分している。

(訳注 051) アルテミス・ブラウロニア女神 Artemis Brauronia
ブラウロン Brauron で祭られた人身御供を要求する恐ろしいアルテミス女神で、オレステス Orestes がハライ Halai に齎らした女神の像である。アテネのアクロポリスの丘の上にも神域を持ち、少女たちが熊を真似て黄色い衣を着て踊った。

(訳注 052) カルコテカ Chalcotheca ( page 37 図 01 - No.42 参照)
<大収蔵庫>のことで、 chalco は銅 copper の意。アクロポリスの丘の上にあった 宝物殿を呼び、その北壁沿いのアルテミス・ブラウロニア女神の神域の直ぐ東、パルテノン神殿との間に建てられていた。

(訳注 053) アウグストス帝 Gaius Octavius Augustus
B.C.63 - A D 14 年。庶民の出でカエサルの養子となり、父が暗殺された後、権力を握って ロ−マ帝国初代皇帝となった。伝統を尊重し、古い道徳の昂揚、奢侈の抑制、軍規の引き締めに意を用い 芸術家などを援助した。 40 年に亘る輝かしい統治により 国民の彼への尊敬は厚く、<尊厳な人>の意のアウグストス尊称が奉呈された。

(訳注 054) ロ−マ Roma
ロ−マにその名を与えた女で、トロイ人であり、アイネイアス Aineias とオデユッセウス Odysseus の二人が一緒に モロソス人 Molossoi の地からこの地に漂着した時、彼女が船を焼き払うよう勧告し、パラテイ−ヌス丘 Palatinus 上に彼らが定住して市が繁栄したため 彼女の名を付けたとされる。

(訳注 055) ブ−ル Ernst Boule
19 世紀半ばのフランス人考古学者で、1852 - 1853 年にプロピュライア入口門西側を発掘した。

(訳注 056) ペルシャ戦争 Persian War
B.C.499 年 ミレトスを中心とするイオニアのギリシャ植民市の対ペルシャ反乱を アテネが援助したことに端を発し、B.C.492 年から 479 年まで 4 次に亘って ペルシャとギリシャとが戦った。この戦いに勝利を収めたアテネは 海上雄飛の基を開き デロス同盟を結成し クラシカル時代を迎えて民主政を徹底化した。

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