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アクロポリスの丘の南斜面上にある建造物
 
 

(訳注 090) アレオパゴスの丘 Areopagus  ( page 39 図 02 - 16)
<軍神アレスの丘>の意。ハリロテイオス Halirrhothios を殺したアレス神が ここで裁かれたことで この名が付いた。アクロポリスの丘の北東の 人工的に頂上を平らにされた小さい不毛の岩丘で、ここでアレイオス・パゴスの元老院議員 Elders の会議が開かれたが、この会議は 政治的、司法的な形体としてアテネ最古のものであった。後年にはアルコンの職にあった者が 殺人、放火などの重大犯人を扱う法廷となった。

(訳注 091) アレイオス・パゴス Areios Pagos
<民会>の意。アテネのアルコン archon による元老院で 富裕貴族の牙城であったが、民主政改革で殺人法廷となった。その成員は終身任期で、民衆によって選ばれた一年任期の役人の経歴のあるものの中から選ばれた。B.C. 7 - 6 世紀の頃の制度である。

(訳注 092) プニュックスの丘 Pnyxpage 39 図 02 - 17)
アクロポリスの丘の西方近く 相対してある低い丘で、恐らくクレイステネス時代から B.C. 4 世紀まで民会が野天で開かれ、言論の力が門閥や富などの対抗勢力を痛烈に非難した地である。丘の側面を人工的に水平に削った半円形の斜面に市民が座り、西端にゼウス・アゴライオスの祭壇、議長と使者のための高壇が設けられ、演説者用ロストラムも付いていて、アテネの市の集会を行う会合場所であった。今日もおもがげを残す。

(訳注 093) 使徒パウロ Apostle Paul
1 世紀始めに活躍した <新約聖書>中で最高の使徒、伝導者。小アジアのユダヤ人の家に生まれた。3 回に亘る地中海世界への大伝導旅行で 各地に有力な教会を作り、ネロ帝のキリスト教会迫害にあって 殉教したとされる。

(訳注 094) ロストラム  rostrum(船嘴演壇)
ロ−マ史では 敵艦の中腹を突き破った軍艦の舳先の船嘴を言い、B.C.338 年にロ−マ軍がアンテイウム Antium の海戦で捕獲した敵船の船嘴を フオラム Forum に飾ったことから船嘴演壇と呼ぶようになった。

(訳注 095) ケラメイコス Ceramicus
古代アテネ北西部の区名で<陶工区>の意。アゴラの玄関デイピュロン二重門のあるアテネ古代の城壁と古代墓地の遺跡を含む地区で、往時は陶工が軒を連ねていた。二重門の後方には古代墓地が拡がり、その最重要地区にはアテネの富裕階級の人々の墓が並んでいた。B.C.8 世紀の典型的なジオメトリック様式の陶器が 多数出土している。

(訳注 096) デイピュロンの門 Dipylon Gate page 39 図 02 - 8)
アテネの西北部ケラメイコス墓地近くの テミストクレスの作った城壁に付いていた アテネの主門の<二重門>で、プラトンのアカデミアから通じる道の終点の印しである。古代都市の市壁の門は 防禦上の理由で 内外二重に構築されることが多かった。

(訳注 097) プラトン Plato
B.C. 427? - 347 年。古代ギリシャの哲学者で アテナイ民主派の名門の出身である。政治に絶望して、ソクラテス哲学の道を受け継いだ。学校と研究所を兼ねた アカデミア akademia を創設し、生涯を 真理の探求と子弟の教育とに捧げた。ギリシャ語散文の頂点とされる  30 編以上の著作中、<ソクラテスの弁明 Apologia Sokratous>、<国家>、<饗宴 Symposion>などが有名である。

(訳注 098) アカデミ−学園 Academy
プラトン Plato が 40 才の時 シシリ−島のシュラクサイ Syracuse から帰国して創設し、門弟に哲学を説いた学園で、ギリシャのアテネ郊外にあった。

(訳注 099) エレウシス Eleusis page 41 図 04 参照)
アテネの北西約 22 km.にある都市で、ミュケナイ期には独立であったが、歴史時代はアテネの外郭防衛地であった。古代ギリシャの聖地で デメテル女神の崇拝の秘教の中心として栄え、秘密儀式用の壮麗な密儀殿 テレステリオン( 7 柱 7 列計 49 柱を立てた一辺 55 m.の正方形プラン、建築家はイクテイノスで、B.C.430 年頃)があって その信仰はヘレニズム、ロ−マ時代にも盛んであった。聖域には この大会堂の他 デメテル神殿、大小のプロピュライアの跡が残っている。

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