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アクロポリスの丘の歴史
 
 
 
 

ミュケナイ期

○ エレクテウスは<地球を揺する者>の意で、ポセイドン神に与えられた古名ともされており、この神を合祀しているエレクテウム神殿は アクロポリスの丘の上の他のどの建造物よりも 一段と聖なるものとして崇められていた。これは嘗てこの場所で アテ−ナ女神とポセイドン神の偉大な二人の神が 都市の所有とその都市を保護する権限を巡って 争ったと言い伝えられているが故のことであった。ミュケナイ期の一番古い建造物も亦 この位置に建っていたことが、発掘調査で判って来ている。

○ このアクロポリスの丘にも その周りにある区域にもどちらにも、石器時代初期以来 人が定住していたのではあるが、ミュケナイ時代 それも特に凡そ B.C.1400 年から凡そ 1200 年の間だけが 成長と繁栄を齎らした期間であったという推測を確証するのに役立つ徴候が 幾つもある。

○ この岩山の城塞化が最初に行われたのは B.C. 13 世紀の後半のことであった。ミュケナイ Mycenae(訳注 100)式と呼ばれているこの擁壁は もともと高く突っ立っていて不規則な形をした輪郭沿いに この岩山の周りを取り巻き、ミュケナイ式の王宮や定住者たちを その囲いの中に取り込んだものであった。

○ この<キュクロップス>式と呼ばれる擁壁には 北側に入口が 2 つ付いており、この岩山の南西に当たる 後年プロピュライアの入口門が建てられた位置に もう一つ主門が付いていた。このキュクロップス式の擁壁の内 ほんの少しだけではあるけれども はっきりと残っている部分がある。今ではニケ女神の神殿の内側に 地中深くで出土して来ていて、この岩山が自然に突き出している所に建てられている 塁壁の一部となっている遺跡もある。プロピュライアの入口門の南側とか ニケ女神の神殿の東側とか パルテノン神殿の南西隅の所とか アクロポリス美術館の東側とか エレクテウム神殿の東側とかに 南壁の一部が見られるが、丘の北側の斜面では 殆ど見られない。

○ ペラスゴイ族の人々 Pelasgians(訳注 101)

○ アテネのアクロポリスは ミュケナイやテイリュンス Tiryns(訳注 102)の丘にある砦と 同じモデルに基づいて作られている。後年になってこの丘の南西の麓に建造され 天然の砦を補強していたこの擁壁は 不揃いな大石塊を積み上げて築かれており、厚みがざっと 4.57- 6.10 m.許りもあり、高さが 9.75 m.を超えるものであった。B.C. 13 世紀頃の前ヘレニック期 pre-Hellenic times に ギリシャの地に住んでいたペラスゴイ族の人々が築いたものであると 古代のギリシャ人が信じていたことから、<ペラスゴイ族の擁壁>として知られているこの城壁が出来て、アクロポリスの丘の城塞が完成を見ており、プロピュライアの入口門からアレポロスたち Arrephoroi(訳注 103)の住居のあった区域にまで到り、クレプシュドラの泉とその東側にある洞穴 3 つを その中に囲い込んでしまっていた。アテネに住んでいたペラスゴイ族の人々は <クラニア人 Cranians>と呼ばれ、アクロポリスの丘は <クラナア Cranaa>と呼ばれていたと ヘロドトス Herodotus(訳注 104)が伝えている。

○ 所謂亜ミュケナイ期 sub- Mycenaean era(訳注 105)と呼ばれる年代と ジオメトリック期 Geometric(訳注 106)との間の  B.C.10 世紀の頃になると、アクロポリスの丘の西斜面には次々に囲いが作られて 城塞化されており、この囲いは ペラスゴイ族の擁壁から繋がって来ていて、後にア−ケイック期になってからアスクレピエイオンの区画となった この丘の南斜面にある境界線の所まで 伸びていたことは間違いないらしい。上に昇ってゆくと、ミュケナイ期に作られた擁壁にあった入り口に通じている道が、この囲いと囲いの間を 曲りくねって走っていた。この時に作られた囲いには あちこちに入り口が 9 つ付いていて、門が 9 つ付いた砦の意の <エネアピュロン enneapylon>の名で知られている。

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