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アクロポリスの丘の歴史
 
 
 
 

○ B.C.561 年から B.C. 510 年にかけての ペイシストラトスとその息子のヒピアス Hippias(訳注 107)の治世期に到る間までは、ミュケナイ期に出来た擁壁も ペラスゴイ族の擁壁も エネアピュロンも その保存状況はとても良好であった。

○ 王宮

○ 周りを擁壁が取り囲んでいるその内側で、王宮と貴族たちの住居とは 幾つかの建物が接続した形になって 所在していた。庶民の住居は丘の麓の擁壁の外側に 南の方に拡がって建てられており、危険が迫った時だけは 誰でもこの防禦壁の内側に避難して来ていた。

○ 王宮は 今日エレクテウム神殿が建っている位置にあり、王座の間が付いていた。表面の下ざっと 1.52 m.許りの深さの所から その土台の一部が出土したが、発掘されたその孔は 後で再び埋め戻されてしまった。ポロス石 poros(訳注 108−多孔性石灰石)で出来た 円柱 2 本の土台石だけが、カリアテイ−ド(女人像柱)の近くの鉄格子の後ろの所で 今日でも未だ見ることが出来るのであるが、これは初期歴史時代から残って来ている遺跡である。この土台石の上に、木で出来た円柱が 屋根の重量を支えて立っていた。

○ アクロポリスの丘から下に降りて行けるよう 北面の擁壁に側面の出口門が付いていたが、その位置はこの王宮から余り離れていない所 今のエレクテウム神殿の東に当たる辺りである。堅い岩を切り刻んで作られた段が 16 ケ 今でも見受けられる。

○ アクタエウス Actaeus(訳注 109)とケクロップス

○ 当時アクタエア Actaea という名で知られていたアッテイカの国の最初の王は アクタエウスであったと パウサニアス Pausanias(訳注 110)が伝えている。アクタエウスが死んだ直ぐ後で その義子のケクロップスが王位を引き継ぎ、この国の統治に当たった。ケクロップスが生存したのは 初期歴史時代の 所謂神話時代又は英雄時代と呼ばれた年代であり、その統治は恐らく B.C.1654 年から 1604 年にまで及んだことであろう。彼はアテネの都市の創始者であり、その最初の王であった。その当時までクラナアと呼ばれていたアクロポリスの丘が ケクロピア Cecropia と改名され、その住民はケクロピダイ Cecropidae の名で呼ばれた。歴史時代になると、ケクロップスはエジプト Egypt からやって来て このアッテイカ地方に住み着いた 移住者であると信じている人が多い。併しアテネの人々は 自ら土着の人間であることを誇りとしており、ケクロップスは 大地の息子であったと見做して、その象徴として彼を 上半身は人間で 下半身は蛇か竜の姿をした 半人半獣であったと主張した。

○  50 年に及ぶその治世期間中に ケクロップスは公衆のモラリテイ(道徳)の基礎を敷いた。最高裁判所に当たるアレイオス・パゴス(民会)を創設し、婚姻を管理し 個人財産を保護する法令を制定し、人々に死者を埋葬することを教えた。ケクロップスが王になるまでは アッテイカ地方の住民は 別々に分かれた独立の家族グル−プや氏族を作って 生活していて、氏族毎に 夫々の首領・守護神・しきたり・習慣・伝説を持っていた。ケクロップスは 独立したアッテイカ地方の共同生活体を 12 作って それらを纏めたのであって、この共同体は夫々に 別々の守護神・祭壇・王・プリュタネウム Prytaneum(訳注 111)・評議会の議院を具えていた。 12 の市区はアクロポリスの丘の上で どれも必ずゼウス・ヒュパトス神 Zeus Hypatos(訳注 112)とアテ−ナ・ポリアス女神 Athena Polias(訳注 113)との礼拝式を 執り行なう義務を持っていた。ケクロップスは又クロノス神 Cronos(訳注 114)とレア女神 Rhea(訳注 115)とのための祭壇を 初めて作ったし、更に宗教的なお勤めに 新しい形態を取り入れて、神々に供えるこれは又 全くひどく血腥さい人間の犠牲に代えて 小麦とか蜂蜜ケ−キとかの供え物としたのである。

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