ttl120
 
navi
 
sitemap
図版ページ
 
アクロポリスの丘の歴史
 
 
 
 

○ デイ−ポリア祭 Diipolia(訳注 116)

○ このデイ−ポリア祭というのは 今日では 6 月中旬 -7 月上旬に当たるスキロポリオンの月 Scirophorion(訳注 117)の 14 日に、この都市の守護神であるゼウス・ポリウス神 Zeus Polius(訳注 118)を祝って アテネで執り行われた祭典であった。この祭典には又 <牡牛の屠殺>が関連していて、ブ−ポニア祭 Bouphonia(訳注 119)としても知られていた。アクロポリスの丘のゼウス神の祭壇の前に 犠牲の牡牛が連れて来られ、祭壇の前面には 小麦や大麦がばら撒いてあった。神に捧げられたこの食物に 獣が触れるや否や、神官が斧で頭を叩いて殺した。牡牛を叩き殺すと、神官は斧をそばに投げ捨てて 逃げた。神官のいない間に その斧はプリュタネウムの中で公判に付せられ、死刑の宣告を受けて 海に投げ込まれた。このユニ−クな儀式の示していることは、この祭典の間中 ずっと牡牛が犠牲に供されてはいたけれども、祭壇の前で血を流すことは 咎められるべきものと見做されていたということなのである。

○ ポセイドン神とアテ−ナ女神との間で行われたコンテスト

○ アッテイカ地方の所有と守護とを巡って ポセイドン神とアテ−ナ女神の二人の偉大な神々の間で抗争が起こったことを 伝説が伝えているが、その時期は ケクロップスの治世の間である。ポセイドン神は自らの力を示すべく その鉾で力を込めて岩をひどく叩いた所 即座に塩水が迸り出たし、アテ−ナ女神はその槍で大地を突いた所 即座にオリ−ブの木が一本生えて出て来たと言われている。ケクロップスと一緒に 審判者としてこのコンテストに立ち会っていたオリムポス山の神々は、アテ−ナ女神がアテネの人々に その時まで知られていなかった植物で 人々にとても役に立つ贈り物をしたとして、女神が勝利者であると申し渡した。神々が自らの力の痕跡を 目に見える形で残したその場所は、アクロポリスの丘の上の 最も神聖な場所として崇められた。

○ エリクトニウス Erichthonius(訳注 120)についての言い伝え

○ 息子のエリュシクトン Erysichthon(訳注 121)は夭折したが、ケクロップスには アグラウロス Aglauros(訳注 122)、ヘルセ Herse(訳注 123)、パンドロソス Pandrosos(訳注 124)の三人の娘がいた。彼女たちの運命を知らせている言い伝えがある。ヘパイストス神 Hephaestus(訳注 125)との間に生まれた 息子のエリクトニウスを育て上げて貰うべく、ガエア女神 Gaea(訳注 126)は この息子をアテ−ナ女神に托した。アテ−ナ女神はエリクトニウスを凾に閉じ込め、決して開いてはならない旨明示した指し図を添えて この凾をケクロップスの三人の娘たちに与えた。ところが 好奇心の強い二人の姉妹アグラウロスとヘルセとは、女神の言い付けをきかずに 凾を開いた。凾の中には幼児が入っていて、大蛇がその周りで とぐろを巻いているのを見た時、二人の姉妹は肝を潰してびっくりした余り 気が狂って アクロポリスの丘から身を投げて 死んだとも言われる。末娘のパンドロソスは アテ−ナ女神の最初の女神官となった。西側にある女神の神殿に近い 銀緑色のオリ−ブの木が枯れ朽ちることなく 花咲いている辺りに、彼女の祭殿のパンドロセイオン Pandroseion(訳注 127)が建っていて、エリクトニウスは この神殿の中で成人したとされる。

○ ケクロップスの死後、アテネの人々は彼を神として遇し、神々によって神聖なものとされた場所に近い墓地に 彼を葬った。

○ クラナウス Cranaus(訳注 128)とアムピクテユオン Amphictyon(訳注 129)

○  17 人の王が 560 年の期間に亘り ケクロップスの後を継いでアテネの王座を占めたが、ケクロップスの直ぐ次の後継者は 最強のアテネ人であったクラナウスで、その治世下で デウカリオン Deucalion(訳注 130)とピュラ Pyrrha(訳注 131)の二人が生き残っただけという 大洪水が起こったと言われている。クラナウスの娘婿のアムピクテユオンは このデウカリオンの息子であり、義父を退位させて 代わって君臨したのであったが、彼とその一族とは 結局最後には エレクトニウスに王座を奪われている。

( 017 )

 
    next
space各ページへのダイレクト・リンク