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アクロポリスの丘の歴史
 
 
 
 

○ その船が今や 帰還の旅を終えようとしていた時、テセウスとその仲間たちは悦こびの余り 白い帆を高く掲げるのを忘れてしまった。アエゲウス王は自分の息子を手許に連れ戻す この船が帰って来るのを待って、アクロポリスの丘から願いを込めて眺め ずっと見張っているのが常であった。フアレロン湾 Phaleron(訳注 154)に近付いて来る船が 黒い帆を高く掲げているのを見た時、息子が死んだものと思った王は 絶望して岩から身を投げた。アテ−ナ・ニケ女神の神殿のある <ニケ・ピュルゴスの高台 Nike Pyrgos>(訳注 155)の下に 古代にはアエゲウス王の墓があった。

○ 後を継いでアテネの王となったテセウスの行った 政治的に大きい功績は、アッテイカ地方とメガリス地方 Megaris(訳注 156)との平原にあって その時までずっと独立していた 12 の市区を 一つの国家に結合し、アテネをその中心としたことであった。アッテイカ地方の個々別々の都市の間には 早くから繋がりが現われていた。テセウスは 当時最強であり 最も高い文明を持つ国であった クレタ島と友好的な関係を持っていて、政治的・社会的な生活の中に 新しい理念と形態とを持ち込んだ。彼をアッテイカ地方の国家の創設者とする名誉が言い伝えられているのは、こうした理由に因る。テセウスの行った改造が如何に大きいか、どうやって他の都市の議会や行政機関を廃止して 評議会議院一つと市役所のプリュタネウム一つのあるアテネに 総べてを集中したのかを、ツキュデイデス Thukydides(訳注 157)が改めて教えて呉れている。これまでと同じように 住民がその土地で農耕することは許したが、彼らには アテネを一つの共通の都市国家として持つよう強制した。こうしてアテネがだんだん強力な力を持つようになり、テセウスはこの都市を そんな形で後継者たちに手渡した。議会の総会は 貴族・農夫・技工の三つの階級に分かれていた。アテネの政府はこの時期既に 民主主義的な特色を具えていたけれども、相変わらずテセウスが都市の首領であり 法の番人であり続けたのである。シュノイキア祭 Synoikia(訳注 158)又はメトエキア祭Metoekia(訳注 159)と呼ばれる大祭典が、アッテイカ地方の諸都市と部族グル−プの結合とを祝って 創められた。アテ−ナ・ポリアス女神の栄誉を称えて エレクテウスが創設したアテナエア大祭は 今やより大きい意義を持つこととなり、結束した市区の どれもこれも総べてが参加する 素晴らしい祭典のパンアテナエア祭と改名されたのである。

○ ゼウス神の栄誉を称え 自らの英雄的な行為を記念して、ヘラクレスがオリムピック・ゲイムズ Olympic Games(訳注 160)を創設したのと全く同じ様に、ポセイドン神の栄誉を称え 自らの偉大な行為の栄誉のために テセウスはイストミアン・ゲイムズ Isthmian Games(訳注 161)を創設した。<テセウス以前は アクロポリスと南方の斜面の麓の地域を囲んだ都市があっただけである>と ツキュデイデスが述べている。テセウスは都市を拡張し、プリュタネウムや議事堂や裁判所といった国家建造物を建て、人口を殖やすべくアテネに招いた多くの異邦人たちに 新しい家を建てるよう依頼した。彼らは夥しい数の他の土地からやって来たし、アッテイカ地方の様々な都市からも 多くの貴族が又やって来た。やがてこのアクロポリスは そんなに多くの住民を最早収容し切れなくなった。こうしてこのアクロポリスの麓には イリッサス川 Ilissus(訳注 162)の両岸沿いと カリロエの泉 Callirrhoeの近くの所とに 南東の方に向かって新しい都市が だんだん生まれ出た。そこには貴族たちや 古代アテネやその他のギリシャ諸国の支配階級であった世襲貴族たちの住んでいた <アステイ>と呼ばれる地区が育っていった。アクロポリスの北側には 商人や技工たちが次第に定住したが、陶工の領域を示すケラメイコスとか 色々な職人のグル−プの定住した他の地区とかの発生の起源を これが説明している。アクロポリスは 単に<ポリス polis>(訳注 163)と呼ばれただけであって、幾百年も経過した後で <アクロポリス>として知られるようになったのである。

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