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アクロポリスの丘の歴史
 
 
 
 

○ テセウスは当時の他の英雄たちと共に アルゴナウツ Argonauts(訳注 164)の遠征に参加したし、カリュドン Calydon(訳注 165)の有名な猪狩り(訳注 166)にも参加した。彼は又ヘラクレスと一緒にアマゾン族と戦ったし、テッサリ−地方 Thessaly(訳注 167)でのケンタウルとの戦闘では ラピタエ族 Lapithae(訳注 168)の王である友人のピリト−ス Pirithous(訳注 169)の側に立って 名を挙げた。テセウスとその他の英雄たちのこうした有名な武功は、後代の多くの工匠たちに 記念建造物の装飾とか その他の芸術作品とかの中のテ−マに対して、示唆を与えることとなった。テセウスからアテネの王座を引き継いだのは メネステウス Menestheus(訳注 170)であった。彼はペテウス Peteus(訳注 171)の息子で、トロイ戦争では アテネの人々を引き連れて トロイ Troy(訳注 172)と戦い、この戦争で B.C.1180 年に 彼も亦死を迎えたのであった。

○ ドリス人 the Dorians(訳注 173)の侵入

○ 結局ギリシャ人が勝利を収めて終わったけれども、大きい犠牲を払うこととなってしまった このトロイ戦争が終結した後、この国の全土を混乱に陥し入れる大事件が起こった。それはヘラクレスの子孫たちとされるヘラクリダイ Heraclidae(訳注 174)と ドリス人たちの侵入であって、彼らは B.C. 1100 - 1000 年頃に 北部ギリシャから南の方に移住して来たのであった。これらドリス人たちは アッテイカ地方には留まらずに ペロポネソス半島になだれ込み、半島一円端から端までに 腰を落ち着けた。先住のア−カエア人 Archaeans(訳注 175)たちの集団は 彼らに駆逐されて、その内の多くの人々は トラキア地方 Thracia(訳注 176)に、他は クレタ島と小アジア地方 Asia Minor(訳注 177)とに移住した。ピュロス Pylos(訳注 178)王のネスト−ル Nestor(訳注 179)の後裔に当たる貴族の全家族は、アテネに避難して来た。ペロポネソス半島の北西地域に住んでいた イオニア人たち Ionians(訳注 180)は、ア−カエア人が漂流して来たことで 自分たちの住んでいたイオニア式の都市 12 を放棄せざるを得なくなり、アッテイカ地方に新しい故郷を捜し求めたのであったが、これらの国外追放者たちは ここでは暖かく迎え入れられた。

○ ギリシャの歴史の二つのエポック epoch  つまりブロンズ期と鉄期の間に 大きい分割を形作ったものは、このドリス人の移住であった。ドリス人たちは 行く先々でひどい略奪を重ねていて、文化的な衰退の年代が到来することの 先触れを告げていた。ギリシャは暗黒の時代に沈み込み、これが何百年も続くこととなったのである。

○ ドリス人たちが南下して来た時には 彼らはアッテイカ地方に押し入ることはしなかったが、自分たちの敵を手厚くもてなすアテネの人に罰を加えるべく ここでペロポネソス半島から出陣した。メガラ Megara(訳注 181)の領域を征服した後、この戦いでどちらの側が勝利を収めることが出来るのかを デルフイ Delphi(訳注 182)の神託に告げて貰うよう願った。リ−ダ−の死んだ側の軍が勝利を得るであろうというのが 彼らの得た返答であった。

○ コドロス Codrus(訳注 183)の死 − B.C.1044 年

○ 当時アテネの人々の王であり その国とそこに住む人々とを夢中になって愛していたコドロスが この話を聞き、農夫に変装して敵のキャンプに潜入し そこで喧嘩を引き起こさせて 殺された。手本となるコドロスのこの行為は、アテネの人々の心を動かして 感激でその心を一ぱいにさせたのであって、彼らは戦闘に突入し ドリス人たちは退却するの己むなきに到ったのである。

○ 小アジア地方へのイオニア人の植民

○ B.C. 1044 年に コドロスが死亡した後、この王が示した犠牲の精神に対して 人々が捧げた賞賛の念に便乗して、アテネの人々は 王政を廃止してしまった。王冠を冠るに値するのは神だけであるという程まで コドロス王は自分の職務を高貴なものにし

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