こうやって判り易くその子孫に伝えているものであって、ア−カエア人・アエオリア人 Aeolians(訳注 137)・ドリス人・イオニア人といった 色々なギリシャの部族の系譜とか、ギリシャの国内で繰り返し行われたその移民とかも亦、この神話と関わりを持っていた。ヘレン Hellen(訳注 138)は デウカリオンとピュラとの間に生まれた息子であり ギリシャ人の先祖であって、テッサリ−地方にあるプテイア Phthia(訳注 139)の王であったが、彼には三人の息子 つまりアエオリア人の祖であるアイオラス Aeolus(訳注 140)、ドリス人の祖であるドロス Doros(訳注 141)とクストス Xuthus(訳注 142)とがいた。クストスは 二人の兄に逐い出されてアテネに逃れ そこでエレクテウスの娘を娶って、二人の息子のアカエウス Achaeus(訳注 143)とイオン Ion(訳注 144)とを持ったと エウリピデス Euripides(訳注 145)が伝えている。併しやがて彼は アッテイカ地方からも同じように逃げ出さなければならなくなって、ペロポネソス半島の北西の地域 後のアカエア地方 Achaea(訳注 146)に当たるアエギアレア Aegialea(訳注 147)に移民し、そこに家族と共に定住したのであった。イオンの末裔は こうしてこの土地で 12 の都市を創設したのである。
○ メガロン Megaron(訳注 148)と神殿
○ 嘗て王宮も建てられていた アクロポリスの丘の上の北側の所で、考古学者たちは可成り深い所から ポセイドン神とアテ−ナ女神との崇拝の古代の痕跡を剥き出しにした。当時王は神官であり、同時に又裁判官でもあった。
○ ナオス naos(訳注 149)は神殿そのものであり、その根源は古代の王宮の中にあった。王宮の中心にある一番美しい室が 正にその心臓部であり、この王座の室と接見室とが同時に又 神の住まいとして役立てるのに最も適わしいと考えられた。この神殿は又 メガロンとも称せられた。一番当初の礼拝式用の建物のプランは、ミュケナイ期のメガロンをベ−スにしたものである。ナオスという語は <私が住む>という意味の <ナイオ naio>から生まれている。神殿は神の住居として建てられたものであり、<ゼウス・ポリウス神>と呼ばれる神も <アテ−ナ・ポリアス女神>と呼ばれる女神も共に、先ず第一に都市の神であり その守護神でもあった。
○ 神が住居を持つようになると、工匠たちが神に人間の形を与える次の段階が 直ぐ続いてやって来た。神の彫像は神殿の焦点であると考えられたので、太古の造型美術品は 礼拝用の初期のこれらの建造物と 手を携えて発展して来ている。<クソアノン xoanon>(訳注 150)と呼ばれる最初の彫像は 人間の形を採って表わされた木彫りの神の像で、仕上げは未熟なものであった。その中で最も良く出来ているものは ヘフアエストス神の作ったものであるか、又はギリシャに現われた最初の彫刻家であり 神話上の人物であった ダエダロス Daedalus(訳注 151)の作ったものであるとされた。人々はこれらのクソアノン像を畏怖して仰ぎ見、人間と同じように世話をし 洗い 食べ物を供え、付き添って奉仕した。
○ アテ−ナ女神の古代の神殿
○ アテ−ナ・ポリアス女神の原始像のクソアノン像は 中でも最も聖なるもので、オリ−ブの木で出来ており 天上からの贈り物であると信じられていて、B.C.6 世紀に作られたエレクテウスの神殿の一部を構成していた アテ−ナ・ポリアス女神の神殿の中に安置されていた。兎にも角にもこのエレクテウスの神殿には 興味深いものが沢山含まれていたことが言い伝えで判って来ていて、二人の神々の間で争われたコンテストの聖なる遺品となっている アテ−ナ女神の貴重なオリ−ブの木と ポセイドン神の塩水が迸り出た<エレクテウスの海>であるとか、アテ−ナ・ポリアス女神の神殿とエレクテウス・ポセイドン神 Erechtheus - Poseidon の神殿であるとか、パンドロソスの祭域であるとか、ケクロップスとエレクテウスとの墳墓であるとか、英雄ブ−テス Butes(訳注 152)の祭壇とかを内に含んでいたとされる。ブ−テスはパンデイオン Pandion(訳注 153)の息子で エレクテウスの孫に当たり、ヘラクレスやテセウスやその他の英雄たちと一緒に アルゴナウツの遠征に参加した。彼はエレクテウスの神殿におけるアテ−ナ女神の最初の神官であり、ブ−タダイ氏 Butadae(訳注 154)と呼ばれる家柄の祖となったのであって、アテ−ナ女神の神官は 総べてこの家系から出たのであった。このエレクテウスの神殿は B.C. 480 年にペルシャ軍の手にかかって燃え落ちてしまったと ヘロドトスは述べている。
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