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アクロポリスの丘の歴史
 
 
 
 

3) スキロポリア祭

○ アテ−ナ・スキラス女神 Athena Sciras を祝ったスキロポリア祭は 今の 6 月下旬に当たるスキロポリオンの月の 12 日に行われ、アクロポリスの丘から 聖道沿いにあったスキロンの村 Sciron(訳注 213)に到る行進が行われ、そこで 犠牲が神に捧げられた。スキロン Skiron と呼ばれる白い大きい傘が、アテ−ナ女神の女神官や ポセイドン神と太陽神のヘリウス神 Helius(訳注 214)の神官たちを 太陽光線から守った。この傘は 祭典のシンンボルであって、祭典の名の起源となったものである。このスキロポリア祭典が行われている間は、人々は穀物を夏の灼熱から守って呉れるよう 神々に懇請したのである。

4) アレポリア祭

○ アレポリア祭の祝典も この同じ夏の月の間に幕を下ろした。この祭りも亦アテ−ナ女神を褒め称えて 祝典が催されたものであったが、今では夜露を効果のあるように与えて呉れる女神として 祝われている。7 才から 11 才までの 4 人のうら若い少女が アレポロイの職務を執り行った。女神の奉仕をするため アテネの貴族の家柄の中から 彼女らが毎年選ばれた。その中の二人は選ばれたその直後から 女神の礼拝像に着せる長くて緩やかな外衣のペプロスを織り始めた。他の二人はどちらも祭典の夜に アテ−ナ女神の女神官からバスケットを受け取っていて、その籠の中味は神秘なもので 誰にも知られないものであった。二人の若い乙女は そのバスケットを頭の上に載せて <菜園の女神アフロデイテ> Aphrodite of the Gardens(訳注 215)の祭殿に到る地下の通路を 夜間通ってゆき、そこで彼女らはそのバスケットを置いて その代わりに同じ様に神秘的な他のバスケットを受け取り、それをアテ−ナ女神の女神官の所に持ち帰った。これが済むと 彼女らの役目も奉仕の期間も終わることとなったのである。

5) オスコポリア祭 Oschophoria(訳注 216)

○ このオスコポリア祭は アテ−ナ女神とデイオニソス神 Dionysus(訳注 217)とを称えて 葡萄の収穫期に催された祭典であった。アテネの人々が過去数世紀の間に祝った祭典の中で 最も重要なものはパンアテナエア祭であったが、この祭典については 後ほどもっと多く述べることとなろう。

○ ギリシャの中期の年代と B.C. 8 - 7 世紀のジオメトリック期

○ 文明が衰退して その影響がギリシャ全土に及んだ年代の幕開けとなったのが ドリス人の移住であったことは、既述の通りである。その年代に到るまでの間 この地で文明を維持し そして助長して来た大きい塊まりの勢力群を 他の地に移住させるに当たっても、最初にその役割りを果たし そして又一番大切な役割りを果たしたのが、正にこのようにして 文明が衰退したという事実であった。

○ B.C. 1000 年から凡そ 650 年頃まで続いた この長期に亘るエポックは、ギリシャの中期の年代と呼ばれて来た。この数百年もの間にアクロポリスの丘の上で どんな変革や変化があったのかについて、正確な知識は何一つとてない。記念建造物であるとか 他の芸術作品とかの痕跡が、夥しい数のジオメトリック期に作られた壺の断片以外には 今日に到るまで 何一つとして明るみに出て来ていないからである。B.C.8 世紀から 7 世紀に亘るこのジオメトリック期に作られた アッテイカ地方の壺が、 1955 年から 1960 年にかけて行われた発掘作業中に アクロポリスの丘の南方に向かって出土し、アクロポリス美術館の第 5 室に展示されている。

○ 言い伝えによれば B.C.682 年に王制が廃止された時までは、アテネの王たちは擁壁を巡らしたこのアクロポリスの丘の上で 安全に住居を構えていたとされている。その後王制が崩壊して 貴族の<エウパトリダエ eupatridae(訳注 218)>がその統治を引き継いだ時も 暫くの間はアクロポリスの丘が都市の公式の中心であり続けた。この頃アテネに住んで仕事をしたのは、特に北西側から北東側に向かってアクロポリスの丘の周りで急速にその勢力を伸長させ始めていた アルコンたちであった。後年 アテネに民主制が確立されるに到って、政治上、行政上及び司法上の機能の中心は アゴラ  agora(訳注 219)とプニュックスの丘とに移された。このようにして都市は発展し 繁栄して、岩山の区域の外に拡がってゆき、B.C.4 世紀に於いてすら 尚<ポリス>の名で呼ばれたアクロポリスの丘は、聖地と礼拝の場所であり続けた。

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