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アクロポリスの丘の歴史
 
 
 
 

○ 多孔性石灰石の<ポロス石 poros>で出来た第一番目のパルテノン神殿と彫刻

○ アクロポリスの丘全域と共に 王宮も亦神々に奉献されたものであって、B.C.570 年頃にはこのアクロポリスの丘に ギリシャで最初の大きい第一番目のパルテノン神殿が建てられている。1885 - 1890 年に行われたアクロポリスの丘の発掘作業で日の目を見た ア−ケイック期の美術出土品は、石灰華の多孔性石灰石とか 大理石とかで出来た彫刻作品であった。この内この石灰華で出来たものの大部分は、初期の神殿とか 神庫とかの装飾の破風の一部分から成っていた。これらの破風彫刻の中で最古のものは レルネの沼沢に棲む<ヒュドラ>を殺している ヘラクレスを描いたものであって、恐らく B.C. 6 世紀に作られた 神庫の装飾物となっていたものであろう。ただこれらの出土品の断片が もともとそこに付いていたという神殿とか 神庫とかの土台石が、これまでの所は 未だ一つも出土していないという課題に その研究に当たる考古学者たちは直面しているのである。

○ デインスモア W. B. Dinsmoor が計算した所によれば、この第一番目のパルテノン神殿の長さは 100 ドリア式フイ−ト doric feet( 100 ドリア式フイ−トは 107 英フイ−トより少し長い)で 幅は 50 ドリア式フイ−トであって、この 1 : 2 のプロポ−ションは この年代に出来た神殿の採っていたプロポ−ショとしては、非常にありそうなものであった。又神殿の長さが 100 ドリア式フイ−トであったことから、この第一番目のパルテノン神殿は 文献や彫り込みに見られる <エカトムペドス ネオス神殿 hecatompedos neos>とか <エカトムペドン神殿 Hecatompedon>(訳注 220)と同一の神殿であると見られている。当初はこの神殿は、もう少し北側に寄った位置 つまりミュケナイ期の王宮の土台石のある区画に建っていたとする意見が有力であったが、今日では 現存する第三番目のパルテノン神殿と全く同じ区画にあった可能性が より高いものとされている。

○ ペイシストラトスと その一族ペイシストラテイダエ Peisistratidae(訳注 221) の僭主政治( B.C. 561 - 510 年)

○ B.C.561 年頃に アッテイカ地方のブラウロン Brauron(訳注 222)出身の貴族であったペイシストラトスが アテネで権力を掴んで、このアクロポリスの丘の上で 自らを僣主であると宣言した。僣主という言葉は 時が経過するにつれて 残酷で圧制的な専制君主という意味を持つようになったが、その当時は 単に非立憲君主とか 独裁者とかを意味しているに過ぎなかった。ペイシストラトスには ヒピアスとヒパルコスHipparchus(訳注 223)とテッサラス Thessalus との 三人の息子がいて、B.C. 528年にペイシストラトスが死亡した後は ヒピアスがその後継者となった。ペイシストラトスとその一族の<僣主制>は 凡そ 50 年続き、その間アテネとアクロポリスの丘とは 沢山の壮麗な記念建造物で一ぱいになった。

○ ペイシストラトスとその息子が僣主であった年代には、このアクロポリスの丘は アルコンの住む家屋として使用され、擁壁も復元されていて 入り口にはプロピュレウムのタイプの 非常にシムプルな建造物であるプロピュロン  propylon (訳注 224)が建てられた。アテネの人々がヒピアスをアクロポリスの丘のこの擁壁の内に攻囲して 追放した B.C. 510 年になって、彼らはこのミュケナイ式の擁壁の殆どすべてを取り毀わして 粉々にしてしまったので、他の僣主たちは誰一人として 二度と再びこの擁壁の中で身を守ることはなかった。このようにして ペルシャ戦争で攻め込んで来たメデイア Media(訳注 225)の人々が見たのは、文字通り全く要塞化されていないアクロポリスの丘であった。

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