○ 入口門のプロピュレウム
○ 人々は 屋根の付いた入り口の間となる入口門のプロピュレウムを作って、アクロポリスの丘への入り口を装飾した。この建造物は 長さ 17 m.で 幅が 13.5 m.の大きさの面積を持ち、東端にも西端にも 夫々円柱が 4 本づつ立っていて、その中央にある扉を 日光と雨から防ぐようになっていた。この入口門を通り抜けると きちっと向かい合って立っていた アテ−ナ・ポリアス女神の神殿に面と向かうことになっていた。現在ある入口門の内側の南東のコ−ナ−で 壁端柱のアンタ anta(訳注 226)が一つと ペラスゴイ族の作った擁壁の一部が付いた段が 3 つ見られる。
○ イオニア人の芸術家たちの帰還
○ このプロピュレウムの入口門の建物の南東に当たる所に、ペイシストラトスはアルテミス女神の栄誉を称えて 祭壇碑を建てるよう命じていて、この女神の崇拝は 彼自身がその故郷の町ブラウロンから持ち込んで来たものであった。ペイシストラトスの一族は 芸術や科学を推進し、通商と海軍艦隊とを振興した。彼らはその直前に ペルシャ軍に占領されてしまった 小アジア地方のイオニア人の都市に住む貴族や詩人や芸術家たちを厚遇して、アテネに戻るよう門戸を開いた。これらのギリシャ人たちは、自分たちが今住んでいる都市を棄てて 自分たちの祖先が 450 年も前に離れていった土地に 戻った方が良いと考えたのである。彼らがアッテイカ地方に帰還したことは、アテネの人々の知的生活にも 社会生活にも 更には造型美術の発達にも 永続的な影響を及ぼすこととなった。サモス島 Samos(訳注 227)出身のテオドロス Theodorus(訳注 228)とか ロエカス Rhoecus(訳注 229)といった人のやり方を見習って、大理石彫刻や ブロンズの塑造作業の芸術の巨匠たちは アッテイカ地方の作業場に著しい影響を及ぼし、大部分のこの年代の芸術制作に その痕跡を残すこととなった。
○ アテ−ナ・ポリアス女神の神殿 − (B.C.525 年)
○ ペイシストラトスの一族に対抗する勢力であった アルクメオンの一族アルクメオニダイ Alcmeonidae(訳注 230)が、デルフイに追放された。兎角する内に この一族の人々はその地で、火災で焼失してしまっていた アポロ神の神殿を再建し始めた。この神殿をより美しく 一段と素晴らしく建てたのであって、神殿の両破風は 大理石の壮大な彫刻で飾られていた。
○ アクロポリスの丘の上の エレクテウム神殿の南側の区画は ミュケナイ期には王宮があり、その王宮が破壊された後で、その同じ区画上に ソロン Solon(訳注 231)の治世期に当たる B.C. 570 年頃には アテ−ナ女神の古代の神殿が建てられていた。この神殿のもので 今日まで残っているものは何一つとしてないけれども、デユルプエルト Dorpferd(訳注 232)が樹てた仮説に従えば、この神殿は多孔性石灰石で出来た破風彫刻の付いている 両向拝式のアムピプロステユロス amphiprostylus(訳注 233)の ドリア式神殿であったと考えられている。
○ ペイシストラトスの一族の人々は アルクメオニダイの人々を凌駕したいと 何時も熱望していて、金をかけて贅沢な新しい神殿を建てて アテ−ナ・ポリアス女神に奉献したいと願った。そこで B.C. 525 年に パルテノン神殿とエレクテウム神殿の立っている中間の所にあった 古代の神殿を取り毀わして、そこに<ア−ケイオス ネオス神殿 Archeios neos>(訳注 234)と呼ばれている 人目を惑く新しい神殿を建てたのであって、その場所で 今日その土台石の出土しているのが見られている。
○ 神々とギガ−ス族たちとの戦闘
○ B.C.525 年に出来たア−ケイック期の このアテ−ナ・ポリアス女神の<ア−ケイオス・ネオス神殿>は 石灰華で造営され、ドリア式のスタイルを採った 繞柱式のペリプテロスの神殿で、一列に並んだ円柱が周りを取り巻いていた。立っている円柱の数は 幅の狭い方の東西両端面では 6 本、長い方の南北の両側面では 12 本であった。
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