この神殿の両破風も 多孔性石灰石(ポロス石)で出来ていて、そこにあった彫像の中で これまでの所出土しているのは、パロス島 Paros(訳注 235)産の大理石で出来た彫像で アテ−ナ女神の像 1 つとギガ−ス族の像 3 つだけに過ぎない。この 4 つの彫像をもとにして、考古学者たちは この神殿の東破風にあった群像を復元しようとしており、オリムポスの山の神々に対して行われた ギガ−ス族たちの襲撃がそこに描かれていたことは、先ず間違いのない所であった。高さが 1.83 m.を超え 長い下着の<キトン>と 外衣の<ヒマテイオン himation>(訳注 236)とを身に纏った このアテ−ナ女神の像は、アクロポリス美術館の第 5 室に展示されている。
○ <ア−ケイオス・ネオス神殿>は 横に壁が走っていて、神殿の内部を二つに仕切っていた。東側の区画は <セコス secos>(訳注 237)とも 内陣とも呼ばれるもので、3 本づつ二列になって 並んで立っている円柱で、ネイブ nave(訳注 238)とアイル aisle(訳注 239)2 つとに仕切られている祭殿であった。セコス(神像安置所)の中央には壁面に向かって アテ−ナ・ポリアス女神の礼拝像が立っていた。西側の区画は <オピストドモス opisthodomos>(訳注 240 -後房)と呼ばれる大きい入り口の間で、背後には 小さい室が 2 つ付いていた。女神に奉献された供え物が ここにきちんと配置されて 立っていたし、背後の小さい室の一つには 神殿の宝物が用心深く守られて 保管されていた。ア−ケイック期に作られた婦人の彫像が 数多く飾り立てられていた。
○ コレ−の像
○ 1886 年の発掘作業中に エレクテウム神殿と北面の擁壁の近くで、これらのコレ−(乙女)の像が 全く偶然に出土した。今日ではアクロポリス美術館の数室に展示されている。
○ ア−ケイック期のこれらのコレ−像は 凡そ B.C. 550 年頃から 490 年にかけての年代の芸術の代表作品であって、イオニア地方 Ionia(訳注 241)が及ぼした影響が この年代の芸術に拡がっていることを はっきり示したものであることは明らかである。B.C.530 年頃に作られた ドリア式のペプロスを身に着けたコレ−像(美術館収蔵品 No. 679)から B.C. 490 年に作られたエウテユデイコス Euthydicus のコレ−像(美術館収蔵品 No. 686)までの彫像は、最初に挙げた 収蔵品 No.679 の像一つだけは例外であるが、他はすべてイオニア式の着衣か 又はイオニア地方の影響の見受けられる着衣を着ている。ドリア式の衣裔には イオニア式のものとの間に 少なからぬ相違点があり、左右対称的できちっと釣り合いが採れており その線は垂直か水平であって その結果輪郭線がくっきりと整っている。反対にイオニア式の衣裔は、斜めの線を使っていて はっきりと不釣り合いなのであり、輪郭線も亦不規則である。アッテイカ地方の婦人が キトンの名で有名な シャツの様な軽い衣服の上に着ていたドリア式のペプロスは、羊毛で出来ており、腰帯の下で襞を幾つか作って 真っ直ぐに垂れ下がっていた。他方このイオニア式のキトンは 衣裔の主体となるものであった。ヒマテイオンは外出着として キトンの上に被せてひっかぶる外側の着衣で、タイプとしてはショ−ルとか 長方形の布といったもので、通常はどちらかと言えば 柔らかい材料の羊毛で出来ていた。両端とも 右肩越しに留金でしっかり留められ、左の肩は剥き出しのままであった。右肩の辺りに集まった所から夥しい数の襞が 垂直に垂れ下がっていて、この襞がイオニア式のヒマテイオンの独特な特性を示すものであった。婦人たちは誰しも ヒマテイオンを身に着けるそのやり方で 自分自身の個性的な趣味と魅力を表現することが出来た。女性の優雅さと魅力とを その彫刻の中に生き生きと表現することにかけては、イオニア人の芸術家たちは 特に優れていた。これらのコレ−像は 左手でキトンを軽く持ち上げており、こうすることで一番魅力的なやり方で デリケ−トな浮き彫りの中に婦人の形が投げ込まれている。襞のこの交錯は 全体の調和の中に融け込んでいる。コレ−の像は 右手で献げ物を保持しているのが通常である。
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