○ コレ−像の結髪様式は 古風なスタイルをしたものである。その多様さと繊細な優雅さとは 今日のヘアドレッサ−にも 数多くの霊感を与えたことであろう。頭髪は波形になって額を飾り立てて 上品に掃き上げられ、胸部の前と襟首の下では 優雅な巻き毛と綟り毛とになって 垂れ下がっている。コレ−像の頭髪、両眼、両唇は彩色されていて、中には今でも この色彩の痕跡が見られるものもある。黄色がかった色合いを出すために ワックスが顔面に擦り込まれた。キトンとヒマテイオンとの縁は 屡々色の着いた刺繍を摸写したものであった。純正のイオニア人のコレ−像の両眼は 幾分か傾斜していて、両唇には <ア−ケイック・スマイル>が見られた。
○ このスマイルは 初期のア−ケイック期のコレ−像には 殆ど型に嵌まったように決まり切って見られるのであるが、B.C.6 世紀の終わり頃になると 消え失せ始めた。その代わりに 生真面目な表情が見られるようになり、この表情が アッテイカ地方の芸術の特長となった。この後 B.C. 500 年頃になると 例えば 収蔵品 No.684 とか No.674 とかのコレ−像のような アッテイカ地方の美術は、イオニア人の影響から脱け出している。 No.686 のコレ−像は <口を尖らして脹れっ面をした乙女の像>と呼ばれ 確かにエウテユデイコスという人物が奉献した 貢ぎ物の像ではあるが、その目に見える表情は、前クラシカル期 Pre- Classical times の芸術の精神 つまり シビア・スタイル期 Severe Style(訳注 242)に一段と近付いているとは言いながらも、外面的には尚 ア−ケイック期の芸術の特性を持ち続けているコレ−像の 今残っている最後のものである。
○ この微笑んでいるコレ−像の どれもこれもが共通して持っている基本要素は 沢山あるにも拘わらず、一つ一つの個性が 紛れる方もなく明白に示されている。これらの像は 決して当時の婦人の似姿の像などではなくて 女神に奉献された像であり、その像を見て 女神の眼を娯しませることになっていたものである。こうしてアクロポリスの丘の上に開けた空間を 気高い装いを凝らして飾り立てながら、アテ−ナ・ポリアス女神の栄誉を称えて挙行された祭典に その微笑んだ優雅さと人間の率直さとで 神々しい華やかさを提供しているのであった。
○ パンアテナエア祭
○ パンアテナエア祭は 他のすべての祭りを凌駕する盛大な祭典であり、アテネの人々許りではなくて アッテイカ地方に住む全住民が 毎年大そうな盛儀盛宴で挙行した祭典であって、アテ−ナ・ポリアス女神の栄誉を称えて エレクテウスが創設した数々の祭典の中で 最古のものであった。当初は 毎年女神の誕生日に当たって アテネの人々が女神にペプロス(ヴェ−ル)を贈ることを目的とした 純粋に宗教的な性格を持った ロ−カルな祭典であって、ホメロスも亦イリア−ドの中で この太古の風習について述べているものである。後年になって テセウスがアッテイカ地方の全ての市区を 首都であるアテネと一体のものとした時に この祭典は変形され、その時点以降はアテナエア祭に代わって パンアテナエア祭と呼ばれる民族祭典となった。ペイシストラトスとその一族の人々は もっと一段と大きい重要性と華やかさとを このパンアテナエア祭に付け加えたのであって、彼らは大型の祭典と より小型の祭典との間を初めて差別して 小さい方のパンアテナエア祭は毎年開催するが、大型の方は 4 年毎に一度 オリムピア−ド Olympiad(訳注 243)の第 3 年目の 現在の 7 月 -8 月に相当するエカトムバエオンの月 Hecatombaeon(訳注 244)の 24 日から 29 日まで 挙行することとした。もともと貴族の祭典がその起源であったものが 発展して民族の祭典となり、汎アテネの祭典から だんだんと全ギリシャの祭典となった。
○ 大パンアテナエア祭は 二つの部分から成っていて、祭典の最初の数日は コンテストが催され、当初は 主に騎馬の人物のコンテストであった。宗教的祭典のために 最後の数日が保留されており、素晴らしい上に大がかりな規模で催されて、祭典の中で最も見る価値のある部分を形作っていた。この騎馬の人物のコンテストには 騎馬競走、戦車競走と並んで <アポバタエ apobatae>(訳注 245)の行う色々な軽業師のような見せ物も含まれていた。これらの騎馬の人物のコンテストに参加したのは 全員が金持ち階級に属している人々であった。ペイシストラトスは更に 運動競技の競走をこのコンテストに加えたが、この競争には 余り裕福でない人々も参加することが出来た。
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