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アクロポリスの丘の歴史
 
 
 
 

この競技には 5 つのタイプのコンテスト つまり徒歩競走、レスリング、拳闘、幅跳び及び円盤投げが含まれており、年齢によるグル−プ別 つまり少年、青年、壮年の別に応じて コンテストが行われた。

○ 音楽競技も 祭典で重要な位置を占めた。ペイシストラトスは ホメロスの作品の最終的なテキストを校合して 順序正しく整理すべく 学会を開設したが、今数ある中でとりわけ詩 特にホメロスの叙事詩からの抜粋を朗読する 吟遊詩人に対して 賞を贈った。

○ 大パンアテナエアの祭典では これらの騎馬と運動競技と音楽的・詩的なものという主要な三つのコンテスト以外にも 余り重要ではない他のコンテストも幾つかあり、それはピュリック Pyrrhic とか エウアンドリア競技 Euandria とか ラムパデドロミイ競技 Lanpadedromy とか 炬火レ−スとかいったものであった。ピュリックというのは 盾と槍とで武装した男が行う 戦争の踊りであって、彼らは本当の戦闘の動向や様相を すっかり物真似するものであった。(アクロポリス美術館収蔵品 No. 1338 参照)伝説の伝える所では、神々がギガ−ス族を征服した勝利を祝って、アテネで初めて この踊りが執り行われたとされている。力強くて男らしい美を非常に賞賛したアテネの人々は 更にエウアンドリアと呼ばれるコンテストを作ったのであって、このコンテストでは 競技者は同じように 3 つのグル−プに分けられたのであった。

○ 運動競技の勝利者には <パンアテナエア祭のアムフオラ amphora>(訳注 246)の名で有名な 中に油が一ぱい入った 素晴らしいアムフオラが、賞として与えられた。このアムフオラの片面には 盾と槍とを持って立っているアテ−ナ・ポリアス女神の肖像が示されていて、その左側には<29>という彫り込みが付いていたし、もう一方の面には コンテストそのものから取った場面が示されていた。音楽のコンテストの勝者には 一定額の金員と花輪とが授与されたし、ピュリックとエウアンドリア競技のコンテストの勝者には 賞品として牡牛が贈られた。

○ これらの競技は ピュラエ Phylae(訳注 247)とか 種族とかから引き抜かれた 10 人の<アスロテタエ athlothetae>の指揮下で行われ、人々がこれらの役人を 4 年間の任期で選んだ。このコンテストの最後は アカデミ−学園の近くにあった プロメテウス神 Prometheus(訳注 248)の祭壇から 市の中心部に到るまでの 変幻極わまりない炬火競走で終わるものであった。

○ エカトムバエオンの月の 28 日は アテ−ナ・ポリアス女神の誕生日であって、この祭典の最終の日に当たるが、この日は女神の礼拝像を 新しいペプロスに着せ替えさせ 荘厳なエカトム hecatomb(訳注 249)の儀式を行うのに当てられた日であった。このペプロスは 黄色の良質の羊毛で出来ていて、幼い少女二人のアレフオロスたちと 第一級貴族の家族から選ばれた より年長の婦人たちである大勢のエルガステイナエ ergastinae とが、丹精を凝らして織った 雅致に充ちたものであった。アテ−ナ女神の女神官が この仕事を監督した。このペプロスには アテ−ナ女神とギガ−ス族との間の争闘場面が 金の刺繍で描写されて付いていた。

○ このペプロスは ケラメイコスからアテネに運ばれたが、この行進は準備に非常に手間取った 崇高な行進であった。後年になると、このペプロスは ガレ−船 galley(訳注 250)のマストの帆のように はためいていて、船は隠れた車輪の上で位置を変えながら 道沿いにすっと滑るように進んでいるかの如くであった。栄光の位置と見られる行進の中央を この船が占拠していた。

○ この祭典行進は 外ケラメイコスの広々としたスペ−スで仕立てられ、日の出と共に動き始めて デイピュロンの二重門を通り過ぎ、内ケラメイコスを横切って アゴラ(中央広場)に到った。先頭に立ったのは 神官・アルコンたち・治世主たちとストラテガスたち strategus(訳注 251)であった。続いて犠牲の動物を引き連れた付き添い人たちが従い 更にカネポロスたち canephoros(訳注 252)が続いていて、彼女らは市の指導的な家族の中から引き抜かれ その美貌の故に選ばれたアテネの若い乙女たちで、女神への贈物や犠牲の用具を入れた 軽いバスケットを頭上に載せていた。

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