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アクロポリスの丘の歴史
 
 
 
 

その後方には <スキアデイポロスたち skiadiphoros>と <デイプロポロスたち diphro-phoros>が続いたが、これは <メトエコスたち metoekos>(訳注 253)と呼ばれる移民の娘たちであり、前者は <スキアデイア skiadia>と呼ばれる傘を担いで カネポロスの娘たちに 太陽の熱が当たらないよう遮っていたし、後者はその娘たちが腰掛ける <デイプロス diphros>(訳注 254)と呼ばれるスツ−ルを持っていた。更に <スカペポロスたち scaphephoros>と呼ばれる移民の代表者たちは 女神に対する色々な奉献物を載せた盆を持っていた。<ヒュドリアポロスたち hydriaphoros>(訳注 255)は 犠牲の献酒用に用いる水や蜂蜜の入った 水差しを運んだ。竪琴や横笛を持った音楽家は 女神の栄誉を称えて これを弾き 聖歌を唄った。<タロポロスたち thallophoros>と呼ばれる アッテイカ地方の全種族出身の高齢の男性は、オリ−ブの小枝を持っていた。行進の末尾を華麗に形作っていたのは 完全武装した兵士と 戦車の馭者たちと 色鮮やかな着衣を着けた有名なアテネ軍の騎兵隊とであった。

○ 行進はアゴラを横切って進み、アクロポリスの丘へ上がってゆく途中にある アレオパゴスの丘の前で止まった。ペプロスを運んで来た船と 騎兵隊と 二輪戦車とは、ここで残った。<エルガステイナエ>の婦人たちは ペプロスをマストから取り下ろして アクロポリスの丘に運び上げ、そこで 神殿の入り口でその到着を待っていた アテ−ナ女神の女神官に そのペプロスを手渡した。

○ ペプロスを献呈した後、アテ−ナ・ポリアス女神の大祭壇の上と アテ−ナ・ニケ女神及びアテ−ナ・ヒュギア女神 Athena Hygieia(訳注 256 と訳注 257−健康の女神)の両祭壇の上で 犠牲が捧げられた。その後で 犠牲の動物の血が人々に分配された。その後に続いて 野外で行われた祭典の食事は、早朝まで続いたのであった。

○ 暴君殺害者たちとブロンズで出来たその群像

○ 大パンアテナエア祭が開催された B.C. 514 年に アテネ人の二人の若者のハルモデイウス Harmodius(訳注 258)とアリストギトン Aristogiton(訳注 259)とは、行進が未だ隊伍を組んでいる最中のケラメイコスで ペイシストラトスの年下の方の息子のヒパルコスを暗殺するのに成功した。ハルモデイウスはその場で 僭主の身辺護衛者の手にかかって 殺されたし、アリストギトンは 厳しい拷問を受けて 死んだ。その 4 年後には 兄のヒピアスも亦 自分の故郷のアッテイカ地方を去って ペルシャに亡命せざるを得なくなった。こうして 50 年許りも続いて来た ペイシストラトスの一族による僭主政治は、終焉を迎えることとなった。

○ ペイシストラトスは アテネの為になることを沢山やったのではあったけれども、その一族による統治が長年月に亘ったことが アテネの人々に非常に嫌われたのであって、この二人の暴君殺害者たちのやった行為に対しては 当然あって然るべき栄誉が与えられるべきであると アテネの人々は考えた。この二人のお蔭で獲ち得られた自由に感謝して、この<暴君殺害者たち>の大理石の彫像をアゴラに立てるべく 偉大な彫刻家のアンテノ−ルが その制作を担当することとなった。アクロポリス美術館の第 5 室に展示されている 収蔵品 No.681 のコレ−像と、デルフイの美術館にある アルクメオンの一族の人々が作った アポロ神の神殿に付いている破風彫刻は、何れもこの同じ作家アンテノ−ルの作ったものであるとされている。

○ アンテノ−ルの作ったこの<暴君殺害者たち>の群像は、後年になって凡そ B.C. 480 年頃に ペルシャ軍がペルシャに運び去ってしまった。サラミス島 Salamis(訳注 260)の海戦(訳注 261)で勝利を収めた後で、アテネの人々は クリテイオスとネシオテス Nesiotes とに依頼して ブロンズで出来た新しい この<暴君殺害者たち>の群像を制作させた。アクロポリス美術館の第 6 室に展示されている 収蔵品 No.698 の像も亦 このクリテイオスの制作したもので、<クリテイオス・ボ−イ> Critius boy の名で呼ばれて来ている。

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