ペルシャ戦争とこれに続く年代の前クラシカル期
○ B.C.490 年のマラトンの戦闘
○ B.C.508 - 507 年には アルクメオンの一族の一員であったクレイステネスは 民主的な精神で 憲法を広範囲に亘って改正しようと考え、アテネの人々に説き勧めて この改正を支持させることが出来た。併しその時既に アテネの存亡を左右するような大きい脅迫が、海外から近付いて来ていた。ペルシャのダリウス王 Darius(訳注 262)は B.C. 500 年までに 小アジア地方のギリシャ人の都市のすべてを征服してしまっており、ペルシャからの解放を求めて 彼らが戦闘を起こした時、その救援にやって来たのは アテネだけであった。そこで王は 先ず最初にアテネに<懲罰を加え>、その後で ギリシャの全土を征服しようとして、B.C.490 年にペルシャの艦隊が マラトンに上陸した。
○ 将軍ミルテイアデス Miltiades(訳注 263)の指揮の下 アテネ軍はマラトンの戦闘で ペルシャ軍を打ち破り、戦利品の荷を積んで アテネに帰還した。ペルシャ軍が初めて撃退されて ダリウス王が退却せざるを得なかったということに、この勝利の持つ大きい意味があった。
○ 第二番目のパルテノン神殿
○ マラトンの戦闘で ペルシャ軍を打ち破った後 数年が経って、アテネの人々は 自らの守護神に対する恩返しとして アクロポリスの丘の上の南の区画に 新しい素晴らしい神殿を造営したいと願い、B.C.6 世紀の初期に建てられた 第一番目のパルテノン神殿である <エカトムペドン神殿>を取り毀わして、新しい神殿の用に供する土台石を据え付けた。
○ 地面が南方に向かって 激しく傾斜して斜めになっていた上に、平面で 10.67 m.以上の段差が付いていて 埋め戻しをしなければならないこともあり、先ず地形工事をきちっとやる必要があった。南の方に更に 18.9 m.を少し超えて離れた所の ペラスゴイ族の作った擁壁近くに がっちりした擁壁が新しく作られ、間に挟まったスペ−スは 割りぐり石で埋められた。この時古くて貴重な遺物であったこのエカトムペドン神殿の 多孔性石灰石(ポロス石)で出来た破風の彫刻物許りか 他の沢山の建築物の彫刻も 小間壁のメト−ペも 三条竪筋溝のトリグリュフ triglyph(訳注 264)も 柱頭も、全て一緒に割りぐり石になって 埋め込まれてしまった。この新しい神殿の土台石は、このようにして作り出された整地面の上に 据え付けられたのであった。
○ ペルシャ軍が ギリシャの自由に向かって大規模な攻撃を加え始めた この時点では、大理石の円柱は 未だ殆ど立て始められていなかった。そしてその後に アクロポリスの丘の上では 野蛮な破壊行為が続けられ、この神殿はとうとう完成されるに到ることはなかった。
○ テルモピュライ Thermopylae(訳注 265)の戦闘
○ マラトンの戦闘の後 10 年経って ペルシャ軍はクセルクセス王 Xerxes(訳注 266)の下に ギリシャに対する新しい遠征隊の装備を整えた。この度は 大艦隊を伴い、扱い難い許りに大きくなったペルシャ帝国の版図の中の 数多くの人民から召集した 強力な陸軍を引き連れて、やって来た。彼らはヘレスポント海峡 Hellespont(訳注 267)を横切り、抵抗の様子を何一つ示すことの無かった 北部ギリシャの諸都市を征服した。とうとうペルシャ軍は テルモピュライの幅狭い通路に到着した。ギリシャ軍が希んだことは ペルシャ陸軍が更に前進するのを この地で防ぎたいということであった。こうしたギリシャ軍の見解が顕らわにされた後 ペルシャ軍はギリシャ軍を包囲すると脅かした。併し、自らの配下のスパルタ Sparta(訳注 268)軍 300 人を引き連れた レオニダス王 Leonidas(訳注 269)は、ペルシャ軍を防いで ギリシャ軍の大部隊を退却させることを可能にした。彼らの英雄的な死は 決して無駄ではなかった。
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