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アクロポリスの丘の歴史
 
 
 
 

自分の艦隊が 完全に全滅したのを知るに及んで クセルクセス王は失望と 胆を潰さん許りの驚愕とで一ぱいになり、急遽自分の本国に戻って行った。王はマルドニウス Mardonius(訳注 275)の指揮下に 可成り大きい軍団の陸軍を後に残し、この軍団が ギリシャを征服する手筈になっていた。テッサリ−地方で 8 ケ月を過ごした後 マルドニウスはボエオテイア地方に進軍し、その地からアテネの人々に密使を送って ペルシャ軍との特別な協定を結ぶよう 説き勧めた。併し <太陽がその進路を維持している限り、アテネの人々は 野蛮人たちの不倶戴天の敵であり続け、野蛮人たちが我々の神を冒涜し その聖地を汚したことを 決して宥すことはしないであろう>というのが、アテネの人々の返答であった。この返答を受け取って マルドニウスは再びアテネに向かって兵を進め 都市を占拠したが、その住民は 又してもサラミスに移住して 都市は無人であった。市街を破壊し 多くの城壁と祭殿とを取り毀わした後で、彼はボエオテイア地方に戻った。

○ プラタエアで ギリシャ軍とペルシャ軍との間の 最後の陸上の戦闘が戦われ、ペルシャ軍は 最大の損失を蒙むることとなったが、 35 万人のペルシャ軍の中で 生きて逃れた者は、4 万人許りに過ぎなかったとされている。マルドニウスも亦 その死者の中の一人であった。これが ペルシャ軍の侵略戦争の終焉を示すものであった。

○ テミストクレスの擁壁

○ ペルシャ軍が撤兵した後、アクロポリスの丘の上では 神殿はすっかり略奪されて 廃墟になっていた。神々の彫像が転がって 地面の場所を塞いでおり、守護神のアテ−ナ女神の像には 頭上の屋根が無くなっていた。テミストクレスは同胞市民に呼び掛けて 自分の住居の再建に取り掛かる前に、新しい擁壁を作って アクロポリスの丘を要害堅固なものにするよう忠告し、住民は誰も彼れも工事に協力して 先ず荒廃の痕跡を取り除く作業に取り掛かった。ペラスゴイ族の作った擁壁は 北面沿いにあちこち損傷を受けていたことから、B.C.479 年には 丘の北面と北西面とに テミストクレスの擁壁と呼ばれる 高さ 4.88 m. 幅 3.96 m.を超える新しい擁壁を作って 防禦した。墓地の墓石碑、崩壊した家屋の土台石許りでなく、アテ−ナ・ポリアス女神の <ア−ケイオス・ネオス神殿>の円柱の太鼓形石材や トリグリュフ(三条竪筋溝)やメト−ペ(小間壁)といった 多孔性石灰石(ポロス石)の破壊物砕片とか、ペルシャ軍が破壊した 第二番目のパルテノン神殿に使われていた大理石の円柱の 竪筋溝の付いていない太鼓形石材も  12 ケ含まれており、擁壁工事を一日も早く完結させるために 適当と見られる過去の遺物は 何でもすべて、この擁壁に埋め込んでしまうよう テミストクレスは命じた。結果として ペルシャ軍の行った破壊行為を アテネの人々に思い起こさせることとなったのであって、アクロポリスの丘の北側では この一風代わった奇妙なテミストクレスの擁壁を 今日でも尚見ることが出来る。

○ アテネの人々は、粉々に毀われた彫像やコレ−像、更にはアテ−ナ女神に奉献された彫刻品を 色々な浮き彫りの断片とか 栄誉を称えて敬虔にくっ付けられた銘刻とかと一緒に 大切に埋めた。彼らはテミストクレスの作った擁壁の後方と エレクテウム神殿の北東側の前面の敷地を 同じ高さにすべく、割りぐり石で埋めた上を覆った。アテ−ナ女神の 古くて神々しい木製の<クソアノンの彫像>は 急いで修理して新品のようにした後で、ペイシストラトスの作った アテ−ナ・ポリアス女神の神殿の西側の区画の <オピストドモス(後房)>の室の中に安置されたし、神殿の宝物も亦この室に保管されたと 多くの考古学者たちは信じている。併し デインスモアを始めとする考古学者の中には、女神のこの木製の像が据え付けられたのは、現在エレクテウム神殿の東半分の建っている区画と ほぼ同じ位置に建てられていたと見られる 屋根付きの小さい祭殿の中であったと 考えている者もある。テミストクレスは 艦隊が重要であり、海上交易も アテネにとっては重要であることを認識していたので、引き続いてピレウス港 Piraeus(訳注 276)の要塞化に取り掛かった。

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