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アクロポリスの丘の歴史
 
 
 
 

○ キモンの擁壁

○ ミルテイアデスの息子のキモンが テミストクレスの工事を引き継いだ。エウリュメドン河 Eurymedon(訳注 277)の戦闘でペルシャ軍を打ち破って 輝かしい勝利を収めた後、その戦利品を売って集めた資金を使って、キモンは B.C. 468 年に アクロポリスの丘の南側と東側とに 新しい擁壁を作った。<キモンの擁壁>の名で知られているこの壁面の砦は、岩盤の縁沿いに作られていた ペラスゴイ族の作った擁壁の 不規則な形をしたコ−スを踏襲せず、囲みを作る際には 角度を等角にし 広範囲に整頓して 南の方にずっと張り出しており、基部では高さ 18.29 m.近く 厚さが 7.32 m.許りであり、頂部でも厚さが 殆ど 5.49 m.近くあった。囲いの内側の岩盤との間には 山のように巨量の層を 土で積み上げて埋め戻してあって、擁壁の外側に出来た傾斜は テラスを拡げ 高さを均一にするため埋め戻したこの割りぐり石の重量を 危険なく支えることが出来るよう 一段と強力なものにされていたのである。

○ デロス同盟 Delian Confederacy(訳注 278)

○ キモンの治世期の年代に ギリシャ人はペルシャ帝国を攻撃し、エ−ゲ海 Aegean Sea(訳注 279)の全ての島々及び ギリシャと小アジアにあった総べての都市を解放した。<公明正大な人>と呼ばれたアリステイデスは B.C.478 年から 477 年にかけての頃に 島々と諸都市との代表者をデロス島 Delos(訳注 280)に招き、最初のデロス同盟がこの島で結成された。アテネ軍はその絶大な制海権を委ねられて、同盟国を海賊とペルシャ軍とから防禦するよう保障し、同盟国は貢ぎ物を支払い 船舶を供給した。この同盟に寄せられた金銭は デロス島で保管され、同盟の管理面は アテネ人の手に移った。後年 トラキア地方海岸にある金鉱を管理していた タソス島 Thasos(訳注 281)及びナクソス島の両島が 同盟に貢ぎ物を支払うのを拒否した時、キモンはその反乱の鎮圧に行かせられた。B.C.469 年に 彼はナクソス島を占領して その砦を破壊し、その市民に罰金を科し、更にタソス島からは金鉱を取り上げた。この金鉱とアッテイカ地方のラウリオン Laurion(訳注 282)にあった銀鉱、ペルシャ戦争の間に得られた戦利品及び後年デロス島からアテネに移された デロス同盟の財宝といったものが、後年になって ペルクレスがアクロポリスの丘の上に 彼の名が直ぐに連想される あの不朽の記念建造物を構築するよう依頼した時に、彼が当てにした財政的基盤を形成したのであった。

○ キモン

○ キモンは アテネの都市を美しくし、色々なやり方で裕福にした。彫像を建立し 木を植え ストアと呼ばれる回廊や柱列廊を建て、絵師のポリュグノトス Polygnotus(訳注 283)や その友人であるミコン Micon(訳注 284)や フイデイアスの兄弟のパナエナス Panaenus(訳注 285)に、ピオキレ piokile(訳注 286)のストアや絵画のある柱列廊を フレスコ画 fresco(訳注 287)で飾るよう依頼した。B.C.478 年以降はアテネは、ペルシャ軍と戦った解放戦争で 主にその攻撃の矢面に立った。アッテイカ地方は 手酷い打撃を受け、その再建は そこに住む人々には きつい要求となっていた。短い合間はあったが 凡そ B.C. 450 年頃まで この戦闘は続いた。この専制君主の領土には 遠征隊が送られることすらあった。建築家や芸術家と 包容力が大きくて費用のかかる公的契約を結んで 金銭を割り当てるには、こうした年代は 余り都合の良い時期ではなかった。対照的に エギナ島 Aegina(訳注 288)や ペロポネソス半島では、野蛮人の芸術破壊行為が その諸都市に襲いかかることもなく、芸術家たちは、自らの神々の栄誉とその母国の栄光とを称えて 壮大な神殿を建立することが出来たのであった。

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