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アクロポリスの丘の歴史
 
 
 
 

○ エギナ島のアテ−ナ・アフアイア女神 Athena Aphaea(訳注 289)の神殿
(訳注 290)とオリムピア Olympia(訳注 291)のゼウス神の神殿

○ B.C.480 年のサラミスの海戦の直ぐ後で、エギナ島の人々は その女神アテ−ナ・アフアイア女神に献げるべく ドリア式スタイルの 壮大な繞柱式の神殿を建立したのであって、その両破風は 大理石で出来た壮麗な彫刻物で 飾り立てられていた。神話の題材を力強く描いた 大理石で出来た彫刻物を付けた 同じような神殿が、オリムピアでも ゼウス神の栄誉を称えて建立された。エギナ島でも ペロポネソス半島の諸都市でも、こうした神殿と並んで 大理石やブロンズで出来た他の芸術作品も亦 沢山作り出されている。

○ 前クラシカル期の芸術家たち

○ この年代には、ギリシャ芸術という大空に 大勢の芸術家たちの名が きらきらと輝いていたと言われている。併し 彼らが作った多くの作品は、実にその名前すらもが忘れられて 失われてしまっている。今日まで名前の伝えられて来ている 一番有名な人物の中では、エギナ島のオナタス Onatas(訳注 292)、シキュオン Sicyon(訳注 293)のカナカス Canachus(訳注 294)、アルゴス Argos(訳注 295)のアゲラダスAgeladas(訳注 296)の名が 特に目立っており、彼らは 造型美術の代表的人物として 幅広い評価を受けていたのであった。最後に名を挙げたアゲラダスは クラシカル期の偉大な彫刻家 3 人、アッテイカ地方出身のミュロン Myron(訳注 297)、アテネのフイデイアス及びアルゴスのポリュクリタス Polyclitus(訳注 298)の師匠であったことで 特に有名になっていた。

○ カラミス Calamis(訳注 299) − B.C.480 - 447 年のアテネ

○ 彫刻家のカラミスは B.C.470 年頃にアテネで活動していた。カラミスが大理石やブロンズを使って作った作品は、<シビア・スタイル期>の頂点を示すものであったと 太古の文書が伝えている。後年 フイデイアスがペルクレスの助言者であったのと同じように、カラミスは キモンの芸術上の助言者であった。エギナ島にはアテ−ナ・アフアイア女神の神殿が そしてオリムピアにはゼウス神の神殿が 堂々と華麗に建立されていたのに反して、アクロポリスの丘の岩山は  B.C.480 年から 447 年までの殆ど 30 年もの長きに亘って 神殿も記念碑もない 殆ど剥き出しのまま 残っていた。野蛮人どもが 神々の神殿に加えた損傷を償い、そうしたことで慈悲深い恩恵を求めて その都市の守護女神に 人々の感謝の意を示すことが、その敬虔な責務であるという状態であった。つまり女神は マラトンの戦いとサラミスの戦いで 人々を助けて勝利を齎らして呉れたのであり、人々が野蛮人たちの奴隷にならずに済ませて呉れたのであり、人々に敬意と富と武勇という評価を獲ち得させたのは 女神の助力があってこそのことであった。女神は 人々に責務の意識を目醒めさせたのであり、これらの人々はアテネ人であり 古代の英雄の後裔であることを誇りとしたのであった!

○ ペルクレス − B.C.448 年

○ キモンが B.C. 449 年に キュプロス島 Cyprus(訳注 300)に遠征して そこで死に、カリアス Callias(訳注 301)がアテネの人々を代表して ス−サ Susa(訳注 302)でペルシャ王と  30 年の休戦協定の交渉をしていて、その和平会談が成功裡に結末を迎えようとしていた年代の その後で、アテネでは 民主化運動が起こっており、そのリ−ダ−であったペルクレスは アテネの町許りではなくて 全ギリシャ中の国土で、ペルシャ軍が破壊した神殿を再建しようとする計画を樹てた。この計画を達成するため 彼はギリシャの諸都市に使節を派遣して 汎ギリシャ会議に参加するよう招請したが、ラケダエモン Lacedaemon(訳注 303)の人々が ペルクレスの計画に異議を申し立て、この計画は実施されることなく終わった。そこでアテネの人々は アテネとアッテイカ地方の中だけで ペルクレスの計画を実施に移すよう決めたと プルタ−クのペルクレス伝が伝えている。

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