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アクロポリスの丘の南斜面上にある建造物
 
 
 
 

 アクロポリスの丘の南斜面上にある建造物

○ アクロポリスの丘の岩山のこちら側には 幾つかの年代のものである建造物が立ち並んでいる。デイオニソス・エレウテリウス神 Dionysus Eleuthereus(訳注 078)のテメノス Temenos(訳注 079)の主な入口は トライポド Tripod(訳注 080−三脚杯)の道の上に立っていて、神殿 2 つの土台石と大きい祭壇とが そこで見出されている。デイオニソス劇場 Dionysus(訳注 081)も亦 B.C.4 世紀の祭域の一部となっている。劇場の北方には トラシュラス Thrasyllus の合唱歌舞団の記念碑と 合唱歌舞団のコンテストで優勝した他の人々の奉献した供え物とが立っていた。劇場の北西の方には アスクレピエイオン Asklepieion(訳注 082)があり、これは古い方とより後年の 2 つの境内から成っていて、泉と祭域と祭壇と ストア stoa(訳注 083)と呼ばれるア−ケイドが付いていたし、東の方には ペリクレスのオデウム Odeum of Pericles(訳注 084)が立っていた。

○ ロ−マ年代には 屋根付きのヘロド・アッテイコスHerod Atticus(訳注 085)のオデイオン odeion(訳注 086)が建てられ、後年になってエウメネス二世王 EumenesU(訳注 087)のストアが このオデイオンとデイオニソス劇場とを繋ぐような形に建てられた。ビザンチン年代 Byzantine times(訳注 088)になると、このデイオニソス劇場の上方にある 小さい洞窟が転換して、聖母マリア the Virgin Mary(訳注 089) つまり<クリュッソスピリオテイッサ Chryssospiliotissa>に献げられた礼拝堂になった。

◎ アレオパゴスの丘 Areopagus(訳注 090)

○ アクロポリスの丘の北東に立ち、アクロポリスの岩丘より低くて 頂上が人工的に平らにされている岩丘である。アレイオス・パゴス Areios Pagos(訳注 091)の元老院議員の会議が この地で開催されたのであって、この会議は 古代アテネにおける政治的形体としても 又同時に司法上の形体としても 最古のものであった。

◎ フイロパパスの丘 − ム−セイオンの丘 Museion

○ ロ−マ年代のアテネの後援者であった A D 2 世紀のフイロパパス Gaius JuliusAntiochus Philopappos の記念碑が 頂上に立っていて、訪問客の眺望には 優れた場所を提供している。アクロポリスの丘やイミトス山や ずっと遠くにサロン湾にまで到る風景がアッテイカ地方の平原を取り囲んでいる このアテネのパノラマのような素晴らしい展望を この地点から娯しむことが出来る。

◎ プニュックスの丘 Pnyx(訳注 092)

○ この丘は使徒パウロ通り Apostle Paulo(訳注 093 - Leoforos Apostolou Pavlou)の近くにあり、岩の斜面を人工的に水平にして作り出した 広々とした半円形のテラス(高台)であって、演説者のためのロストラム rostrum(訳注 094 -船嘴演壇)が付いていたし、アテネの市の集会を行う会合場所であった。

◎ ケラメイコス Ceramicus(訳注 095)

○ デイピュロンの二重門 Dipylon(訳注 096)と<レラ・ピュリ> lera Pyli との 2 つの門の付いたアテネの市の古代の城壁と この町の古代の墓地の遺跡の地区が含まれている。このデイピュロンの二重門は この市の主門であり、プラトン Plato(訳注 097)のアカデミ− Academy(訳注 098)から来る道の 終点の印しとなるものであり、レラ・ピュリの門の方は エレウシス Eleusis(訳注 099)から来る道の終点であった。この 2 つの門の間には ポムペイオン Pompeion の建物が立っていて、パンアテナエア祭の行進が この建物から出発したのであった。デイピュロンの二重門の後方には ケラメイコスの墓地が拡がっていた。墓地通り the Street of Tombs( Odos ton Tafon )がその最も重要な地区であって、その両側面沿いに アテネの金持ちの墓が並んでいた。

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