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アクロポリスの丘の歴史
 
 

(訳注 220) エカトムペドン神殿 Hecatompedon
B.C.6 世紀にアクロポリスの丘の上の南側に建てられた ア−ケイック期のアテ−ナ女神の神殿で、パルテノン神殿 the Parthenon の原型となったものである。ドリア式 両向拝式の神殿で、長さが 100 ドリア・フイ−トあった。

(訳注 221) ペイシストラテイダエ Peisistratidae
B.C.6 世紀後半 つまり B.C. 561 年にペイシストラトスがアテネの僭主となり、その子のヒピアスが B.C. 510 年に追放されるまでの間 僭主として凡そ 50 年間 アテネを支配したペイシストラトスの一族を指す。

(訳注 222) ブラウロン Brauron
アテネの東方海岸にある アッテイカ地方の古都で、アガメムノンの子のオレステス Orestes が姉のイピゲネイア Iphigeneia と共に クリミア半島 Crimea のタウリス Tauris からアッテイカ地方のハライ Halai に齎らした 人身御供を要求する恐ろしいアルテミス女神が ブラウロニア Brauronia の名の下に祭られていた。

(訳注 223) ヒパルコス Hipparchus
ヒピアスの弟で アテネの僭主となった。芸術を好み、文芸や美術の奨励者として活躍した。B.C.514 年に ハルモデイオスとアリストギトンとに暗殺された。

(訳注 224) プロピュロン propylon
<入口>の意のギリシャ語プロピュライオン propylaion から出ている語で、神殿、寺院などの特に主要な入り口を言い、プロピュレウム propyleum(訳注 021)と同義。

(訳注 225) メデイア Media
古代オリエント Orient のカスピ海 Caspian Sea 南西の山岳国家で メデイア人は B.C.2000 年紀 既に下ウルミア地方 Urmia に住んでいた。B.C.7 世紀前半に フラオルテス王 Phraortes とその子キュアクサレス Kyaxares の下 近隣諸邦を滅ぼして 広大な領土の王国に統一したが、B.C.6 世紀前半のアステユアゲス王 Astyages の時、属領の王キュロス(大) Kyros に敗れて ペルシャ人の支配下に入った。

(訳注 226) アンタ anta
<壁端柱> 端片蓋柱である。古代ギリシャ神殿建築で 内陣の側壁の端で終わっている僅かな突出部のピラスタ− pilaster(つけ柱)又は隅の矩形の柱を言う。アンタエ antae はその複数形である。

(訳注 227) サモス島 Samos  ( page 41 図 04 参照)
エ−ゲ海南東部小アジア沿岸近くにあるギリシャ領の小島で、B.C. 11 世紀頃にイオニア人が植民し 早くから海上に活躍して商工業が栄え、B.C.6 世紀頃繁栄の頂点に達した。南岸のイオニア式ヘライオン( 8 x 21 柱 計 104 柱の二重周柱式、52.5 m.x105 m.建築家はロエカス)は 当時ギリシャの最大の建物で、後に僭主ポリュクラテスが再建に着手したが 未完に終わった。ピュタゴラス Pythagoras の生地である。

(訳注 228) テオドロス Theodorus
サモス島 Samos にあるヘラ女神の神殿を建て それについて最古の建築書を書いた。B.C.6 世紀後半のサモス島の彫刻家で ペイシストラテスの招きに応じてアテネに帰って活躍し、その造型美術の発展に影響を及ぼした。

(訳注 229) ロエカス Rhoecus
B.C.6 世紀後半のサモス島出身の彫刻家で、ペイシストラテスの招きに応じて テオドロスと共にアテネに帰って 活躍した。サモス島のヘラ神殿を建築したとされる。

(訳注 230) アルクメオニダイ Alcmeonidae
アテネの有力貴族で B.C. 7 - 5 世紀のアテネの政治で指導的役割を果たした。メガクレス Megakles の犯した涜神罪がこの家系につき纏ったが、B.C.6 世紀中頃は海岸党を指揮し スパルタの援助で僣主政を打倒した 改革者クレイステネスもこの家系の一人である。

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