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アクロポリスの丘の歴史
 
 

(訳注 231) ソロン Solon
B.C.640 年頃 - 559 年頃。アテネの立法者で ギリシャ七賢人の一人。名門の出で、B.C.594 年アルコンに選ばれ 負債の帳消し、身体を抵当とする金貸し禁止等の改革を行い 又財産の評価によって市民を 4 階級に区分し 400 人の評議会を新設した。

(訳注 232) デユルプフエルト Wilhelm Dorpfeld
1853 - 1940 年。ドイツの考古学者である。1877 - 1881 年のオリムピア発掘で名を挙げ、シュリ−マンを助けてトロイ、テイリュンスなどを発掘し 1885 年にはアテネのアクロポリスでエカトムペドン神殿の遺構を発見して学会を驚かせた。ギリシャのレブカス島 Levukas に移住して そこで歿した。

(訳注 233) アムピプロステユロス amphiprostylus ( page 43 図 06 D 参照) 
<両向拝式>、<両面前柱式>の意。ギリシャ神殿の一形式で、柱列が前面だけにあるプロステユレス prostylus に対して 前面と背面に柱廊を設けたものを言う。アムピプロステユレ amphiprostyle のギリシャ語である。

(訳注 234) ア−ケイオス・ネオス神殿 Archeios neos
<太古の神殿>の意。ペイシストラトス一族治世期の年代の B.C. 525 年に 現在のパルテノン・エレクテウム両神殿の中間の位置の 嘗てミュケナイ期に王宮のあった区画に建っていたドリア式・繞柱式の神殿で、アテ−ナ女神に奉献された。内部はプロナオスとケラとオピストドモスとに仕切られていた。

(訳注 235) パロス島 Parospage 41 図 04 参照)
ギリシャ東南部 エ−ゲ海のキクラデス群島 Cyclades の中の大きい島で、優秀な大理石の産地として知られる。B.C.700 年頃 タソス島 Thasos への移民も行われ B.C.490 - 480 年頃はペルシャの味方をしたが、後デロス同盟に加わった。

(訳注 236) ヒマテイオン himation
古代ギリシャの一種の外衣で 左肩上から垂らし掛けて 右肩の上又は下で縛り留める長方形の布である。

(訳注 237) セコス secos
古代ギリシャ・ロ−マ神殿の内陣を言う。

(訳注 238) ネイブ nave
<身廊>の意。教会堂建築の主体をなす 中央の細長い広間の部分を言う。ラテン語で船を意味するナヴィス navis から出た語で、側廊のある場合は 身廊と側廊との間は角柱又は円柱の列によって区画される。神殿では、その正面入口 拝廊から内陣までの二列の円柱列で区分された中央部の長い空間を言い、側廊が両側にある。

(訳注 239) アイル aisle
<側廊>の意。教会堂建築では 身廊の両側にある細長い廊下状の部分を言い、神殿の内陣では 二列の円柱列で区分された左右の両側面部を言う。通例 身廊の両側にあり、身廊より低くて狭い。

(訳注 240) オピストドモス opisthodomos ( page 43 図 06 参照)
<後房><裏玄関間>の意。ギリシャ・ロ−マの古代両向拝式神殿の後ろの室つまりケラ cella の後ろにある部屋を言う。東正面入口広間のプロナオス pronaos と同型のことが多く、財宝などを入れておくのによく使用されていた。

(訳注 241) イオニア地方 Ionia
エ−ゲ海に臨む小アジア西岸地方及び隣接諸島一帯の古称である。B.C. 10 世紀にイオニア人が植民し 同 8 世紀頃から栄えた。B.C. 6 世紀にペルシャに支配されたが 後解放されて 次々にデロス同盟に参加した。古代ギリシャ世界の生命線で、ギリシャ文化の形成に貢献した。

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