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アクロポリスの丘の歴史
 
 

(訳注 255) ヒュドリアポロス Hydriaphoros
ヒュドリアポロイ Hydriaphoroi は複数形。ヒュドリア Hydria と呼ばれる 肩の直ぐ下に水平の把手が 2 つ付き 他に垂直の把手の 1 つある 犠牲の献酒用に用いる水や蜂蜜の入った 首が短くて胴の大きい水甕を運んで 大パンアテナイア祭に参加した人々の呼び名である。

(訳注 256) ヒュギア女神 Hygieia
アスクレピウス神 Aesculepius の娘で、古代ギリシャの健康の女神であり、ロ−マのサルス Salus に当たる。

(訳注 257) アテ−ナ・ヒュギア女神 Athena Hygieia
古代アテネでは、ヒュギア女神は この複合形態の形で礼拝されていて、プロピュライア入口門の南東のコ−ナ−に この女神のブロンズで出来た彫像が立っていた。

(訳注 258) ハルモデイウス Harmodius
B.C.6 世紀のギリシャの美青年で B.C.514 年のパンアテナイア祭の日に アリストギトン Aristogiton と共に僣主の弟ヒパルコスを殺害したが、その場で殺された。後代になって 2 人はアテネの愛国者で 僣主殺害者の英雄と見做された。

(訳注 259) アリストギトン Aristogiton
古代アテネの中産市民で 愛する美青年ハルモデイウスを奪われることを恐れて、B.C.514 年に僣主の弟ヒパルコスを殺害し、捕らえられて処刑された。恋の鞘当てが原因のこの事件が 後に僣主制を倒した愛国者の英雄と見做された。生歿年は不詳。

(訳注 260) サラミス島 Salamis  ( page 41 図 04 参照)
ギリシャの南東部エギナ湾 Aegina にある島で人口は 15 千人、面積は 90 平方 km.B.C.480 年にテミストクレス Themistokles 率いるアテネ人が ペルシャ海軍を狭いサラミス湾に誘い込み  11 時間の海戦の末 これを潰滅させて、ペルシャ戦争の勝敗を決定付けた地である。

(訳注 261) サラミス湾の海戦 Salamis
B.C.480 年に アテネ海軍が狭いサラミス湾で 11 時間戦った後、クセルクセス王の率いるペルシャ軍を壊滅し、ペルシャ戦争の勝利を決定付けた海戦を言う。

(訳注 262) ダリウス王 Darius
B.C.558 ? - 486 ? 年。ペルシャ王で 在位は B.C. 521 - 486 ? 年。二回ギリシャに侵入したが、B.C.490 年のマラトン Marathon の戦いで敗れた。

(訳注 263) ミルテイアデス Miltiades
B.C.550 頃 - 489 年。アテネの名門出身の軍人で政治家。B.C.490 年に マラトン Marathon の戦いでペルシャ軍を破った。トラキア Thrakia の王オロロスの娘との間に生まれた子が 有名な政治家キモン Cimon である。

(訳注 264) トリグリュフ triglyph ( page 42 図 05 参照)
<三条竪筋溝>のこと。ドリア式オ−ダ−のフリ−ズ構成要素で、メト−ペ metope と交互に配された 縦溝が刻まれている部分で 小梁の鼻の部分の名残りと言われる。ギリシャ語ではトリグリュフオス triglyphos と言う。

(訳注 265) テルモピュライ Thermopylae  ( page 41 図 04 参照)
ギリシャ北東部からテッサリ− Thessary に通じる<熱泉の門>ポキス Phokis 北境の隘路で、B.C.480 年にレオニダス率いるスパルタ軍が クセルクセスのペルシャ軍と戦って、この海辺の峡路で玉砕した。

(訳注 266) クセルクセス王 Xerxes
B.C.519 ? - 465 ? 年。ペルシャの王で、在位は B.C. 486 ? - 465 ? 年。ダリウス一世の子で、第 3 回ギリシャ遠征隊を起こしたが、サラミス湾 Salamis で大敗した。

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