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アクロポリスの丘の上の記念建造物
 
  ○ B.C.6 世紀に作られた ア−ケイック期のこの神殿は 嘗ては<エカトムペドンの神殿>と呼ばれたこともあったが、現在では この神殿のことを初めて研究した考古学者の名をとって 通常<デユルプフエルドの神殿>と呼ばれている。東半分のケラの部分には 木で出来た円柱がその上に立っていた 四角形の土台石が 2 つ残っているが、これは恐らく ミュケナイ期の王宮であった <メガロン>の屋根を支えた柱であろうと見られている。  
 
図 08) B.C.6 世紀に出来たアテ−ナ女神のア−ケイック期の神殿平面図

 
  A) アテ−ナ女神の神殿
1) <ケラ> 神像が安置されていて、ネイブ(身廊)3 つに仕切られている。   
2)と 2a)と 3) <オピストドメ> opisthodome の区画( 3 つの室に仕切られていて、どの室も<ケラ>には通じていない。)
B) エレクテウム神殿
 
 


○ この神殿に供えられた奉献物もアテ−ナ女神の<オウラノペテス・クソアノン像>も この神殿と共に B.C.480 年にペルシャ軍の手で放たれた火災で焼失してしまった。アクロポリスの丘の北壁 つまりテミストクレスの作った擁壁の中に この神殿の多くの砕片が閉じ込められた。ペルシャ戦争の終わった直後の B.C.479 年になって アテネの人々は 破壊から守られたことが明らかであった この神殿のケラの各部を再建し、焼失した<クソアノン像>を新しいものと取り替えて 元のものと同じ場所に安置した。ケラとか 神殿(ネオス neos)とか 太古の神殿(ア−カイオス・ネオス)とか 太古の像を安置した市中の神殿とか アテ−ナ女神の神殿とか 神殿や社とかと 太古の文献が言及しているのは、この神殿のことに相違ない。

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