○ この神殿は ケラの区画だけがあって 外側にコロネ−ドの付いていないという 新しい形態のままで用いられたが、エレクテウム神殿の建物が完工したのと同じ B.C. 406 年に 故意の放火による火災が起こって焼け落ちたとクセノフオン Xenophone(訳注 452)が伝えている。この区画を広々と開いて、女神のクソアノン像をとりあえず運び込んだ新しい神殿である このエレクテウム神殿を眺めるのに障碍になるものは すべて除去しようとして、火を付けたものであったらしい。
○ 今日そこに見られる この神殿の遺跡も、その上に建っていた建築物の部材や アクロポリス美術館の中に展示されている 彫刻の付いた装飾物の諸作品と共に、第一のパルテノン神殿である アテ−ナ・パルテノス女神の<エカトムペドン神殿>に帰属するものであると、過去の学者たちは 嘗ては見做して来ていた。
エレクテウム神殿
○ 神殿が造営された沿革
○ アクロポリスの丘を華麗に再建するために、ペルクレスがその助言者と一緒になって描き上げた 幾つもの計画の中には、アテ−ナ・ポリアス女神とポセイドン神との複合の神殿が嘗て建っていたその同じ区画に 全く新しい神殿を造営しようとする計画、つまり B.C. 480 年にペルシャ軍が焼き落とした ア−ケイック期の神殿の代わりの神殿を作るという計画も 当然入っていた。その当時のアクロポリスの丘の上の北側には、B.C.479 年に粗末に仮に再建された 以前の凡そ半分の大きさの 小さい神殿が立っているだけであった。ペルシャ軍の破壊から かれこれ 50 年も経過しようとしているのに、この粗末な仮の神殿には 柱列も付いてなければ、ギガントマキアの戦いを描いた破風も無く、嘗てあった栄光の中で その時唯一つ残っていたのは、神聖な女神の木製の礼拝像が安置されているということだけに過ぎなかった。
○ パルテノン神殿が建立された時に、この木像をパルテノン神殿に移すという考えは全くなかった。パルテノン神殿は総べての建造物の中にあって ペルクレスの年代の真髄を示すものであって、そこにはフイデイアスの作った 象牙と金とで出来た新しい像が安置された。パルテノン神殿とプロピュライア入口門が完成した後になって 新しいエレクテウムの神殿を造営しようという計画が、ペルクレスとその取り巻きの人々の中に興った丁度その頃 ペロポネソス戦争が勃発して、工事の着工は延期された。
○ ペロポネソス戦争は 10 年間続き、所謂ニキアス Nicias(訳注 453)の和約と呼ばれる スパルタとの平和条約が結ばれた B.C. 421 年になって、やっとこの神殿の造営が着工されたことは 間違いない。併しアテネとスパルタとの間の戦争が再び勃発し シシリ−島遠征も始まって 工事は中断し、完工したのは B.C.409 - 405 年の間で、丁度アテネがスパルタに降伏する少し前のことであった。この時にフリ−ズの彫刻が作られ、カリアテイ−ドや円柱も 作り始められている。記録に拠れば、1 本の円柱の溝を彫るのに 5 - 7 人の大理石職人の居る作業場で 2 ケ月を要したとされている。偉大な指導者であったペルクレスは B.C.430 年にアテネに蔓延した 恐るべき流行病のペストの犠牲者となって 翌 429 年 9 月に死亡し、<ペルクレスの黄金期>も亦 終焉を迎えることとなった。この神殿の設計者は誰か 良くは判ってはいないが、ムネシクレスであったともされている。アクロポリスの丘の上で出土し この神殿の造営を対象とした彫り込みに付いている日付けは B.C. 409 - 408 年であり、この神殿を造営する作業を監督していた建築家の名は ピロクレス Philocles であったと記されている。
○ エレクテウムの神殿( page 37,図 01 - No.50)は アクロポリスの丘の岩山の北側に聳え立っている バランスが余り良く採れていない芸術作品であって、パルテノン神殿から離れたこの区画を 調和を取って補足しているものである。太古のギリシャ建造物の中で 一番美しい装飾のある独創的な作品の一つであるこの神殿は、ニケ女神の神殿と共に この聖なる岩山上の<リッチ・スタイル>を代表するものであり、この市の創設に関わる古代の神話が この神殿と結び付けられて、伝統的に受け継がれて来た色々なタイプの礼拝が、<アカイオス・ネオス神殿>からここに移された。
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