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アクロポリスの丘の上の記念建造物
 
 
 
 

○ 床下には 岩の切り込みがあるが、今日見られるように タイルを使ったトルコ軍の水槽に変えられてしまったのは、後日のことである。伝説によれば、ポセイドン神とアテ−ナ女神との間で コンテストが行われた時に、ポセイドン神はこの場所で岩山に打撃を加えて、<エレクテウスの海 the Erechtheis Sea>と呼ばれる海水が 勢いよく迸り出たとされている。パウサニアスはこれを <噴き出し>と呼んでいて、その位置は このプロストミエイオンの室の舗石の下であった。噴き出しの開口部の意である<プロストミエイオン>が この区画の名として与えられた理由は、ここにあるようである。西側の室の壁面上に エテオウブ−タダイ Eteouboutadae の家系に属する 神官たちの名が彫り込まれているが、彼らはポセイドン・エレクテウス神とアテ−ナ・ポリアス女神の両祭神を祭った神殿の 世襲の神官たちであった。これらの室に関して嘗ては、エレクテウム神殿の中のこの室で 両祭神が同時に礼拝されていたものとされていたが、最近になってギリシャ人の学者トラヴロス John Travlos は 東側の室でポセイドン・エレクテウス神が、西側の室でアテ−ナ・ポリアス女神が礼拝されていたという意見を公表している。

4)  ポセイドン神とエレクテウスとの祭壇

○ プロストミエイオンの入口の間と繋がった東側の長方形の室は、横に走った間仕切り壁で 更に 2 つの室に区切られていたものらしく、その内の南側の室には エレクテウスに犠牲を献げたポセイドン神の祭壇があり、これがこの建物全体がエレクテウム神殿と呼ばれるようになった所以とされている。この室はポセイドン・エレクテウス神の礼拝用に奉献されたもので、ポセイドン神の祭壇では アテネの人々は神託に従ってエレクテウスに犠牲を捧げたが、他にも英雄ブ−テスの祭壇やヘパエストス神のための第三の祭壇もあった。ブ−タダイの神官一族の人々の絵画が壁面を飾っていた。

○ <オイクロス・オピス oikouros ophis(訳注 467)>は 家庭の管理者である大蛇であり、地下を意味する<クトニアン chthonian(訳注 468)>の礼拝のシンボルであって この室に住んでいた。もともとこの大蛇はエレクテウスであり、エリクトニオスでもあった。アテ−ナ女神とこの大蛇のエリクトニオスの間には 密接な関連があって、パルテノン神殿に安置された金と象牙とで出来た女神の彫像に 大蛇の描写が付いていたのは、この理由があることに因るものである。

5)  神殿の西正面

○ 東側の床面より 3 m.許り床面が低い 西正面の壁面の下の区画部には、ケラの両壁端柱の間に 高さ 3.66 m.の裾壁があり、そに上には高さが 5.62 m.あるエンタブレイチュアの支柱が 4 本立っている。この支柱材 4 本は 外から見ると一方の側だけが壁にくっ付いた円柱のように見え、内から見ると壁端柱のように見えた。片側だけが壁に付いた円柱 1 本と 南にある壁端柱との間にある開口部を除いて、片側だけが壁に付いた各円柱の間にある他の開口部にはすべて 上に格子組みを被せた低い胸壁が付いていて、閉じられている。今日ここに残っている壁面と窓と円柱の内の 2 本とは、 B.C.27 年のロ−マ年代に再建されたものである。

○ 北面ポルテイコが 建物の西の壁面より更に西側に突き出ているのに対して、南面にあるカリアテイ−ドのポルテイコでは その西端とこの建物の西の壁面とが ぴったり繋がっている。この点から見ると、西面には圧縮があって、この西の壁面は 当座の仮りのものであったらしい。当初の計画では,このエレクテウム神殿はもっと西に伸びて 西側にはポルテイコがもう一つ付き、南北にある 2 つのポルテイコは 丁度全体の真ん中の所に来るようになって 最後の仕上げがされていた筈であった。若しこの神殿の建物が 当初の計画通り更に西に伸びていたとすれば、パンドロセウムとゼウス・ヘルケイオス神 Zeus Herkeios(訳注 469)の祭壇とが 間違いなくその中に入ってしまうこととなる。このゼウス神の祭壇は ミュケナイ王の年代からここにあり、アクロポリスの丘の上の最古の祭壇であって、その前庭は このエレクテウム神殿の方まで ずっと拡がって来ていた。併し この当初の計画が実現することはなかった。

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