a) 第一に この新しい神殿を建てようとする区画の不規則な地形を うまく処理する必要があった。この敷地では、地盤が東から西に そして南から北に向かって 激しく傾斜していて 平面の高さに大きい段差があったが、証拠品である この遺物が保存されている<マルテユリウム Martyrium(訳注 477)>を きちっと残して置きたかったことから、埋め戻して地均らしすることはせず、逆に建てようとする建物の方を この不規則な地表面の凹凸に順応させた。
b) ポセイドン神の鉾が作った痕跡とか <エレクテウスの海>と呼ばれる塩水の泉とか アテ−ナ女神のオリ−ブの聖木とか この家に棲む保護者の大蛇の棲み家とか ケクロップスとエレクテウスとの墓所とか 神々や英雄たちの多くの祭壇とか その他自分たちの父祖の敬虔な信仰の遺物が この神殿の敷地の中に数多くあり、これらを同じ屋根の下に囲い込んだ上、忠実な信者が容易く近付いて 参拝出来るようにしておくことが必要であった。仮令(たとえ)建築学上の構成に反するとしても、これらの遺跡を消滅させないよう 慎重な配慮を払って保存したのであった。
c) <ア−ケイオス・ネオス神殿>からこの新しい神殿に引き継いで来て ここで執り行われている礼拝とか 宗教的な儀式とかが 諸々の要請を押し付けていて、これらに対しても 解決を捜し求めなければならなかった。
○ 北面のポルテイコと南面のコレ−のポルテイコという構築物が 別々にくっ付いていたお蔭で、このエレクテウム神殿は 太古のギリシャのどの神殿もが概して持っていた 長方形の素朴な型という 予期されており 且つ広く受け入れられていた形のものにはならなかった。クレピドマと屋根との間の高さに 北面と南面とで違いがあったことから、この建造物の纏まりが より激しく毀わされてしまっている。
○ 他方では、エンタブレイチュアとケラと北面のポルテイコとの間には 画一性とか 調和の採れた関連とかが見られ、更にこの神殿の東面と南面とを 画一的なクレピドマがずっと繋がっていて、その面ではこの建造物の凝集力が取り戻されている。この神殿は 感じ易いものである上に 洗練されており、概して言えば豊かで明かるく 優雅で清新な建造物であって、建築としての細々した部分や 装飾になった彫刻物は 特に気をかけて作られている。
11) 神殿のその後の変遷
○ このエレクテウム神殿は、アクロポリスの丘にある記念建造物の中では 次に続いた古代の幾多の年月の間に 徹底的な変造を受けたものの一つである。ロ−マ時代にもこの神殿で火災があり その後で修復が行われているが、この時には 昔の設計には余り真剣に注意を払うことなく 改造が行われてしまっている。中世期の初期の間は この神殿はキリスト教のバシリカ basilica(訳注 478)となり、フランク族 Frank(訳注 479)が支配していた間は この地区のラテンの王子の王宮であったし、トルコ軍が占拠していた間は トルコの駐屯軍の司令官の住居の役割りを果たした。この時に水槽を構築すべく 床に深い孔が 2 つ掘られていて、その一つは ケラの西の区画の<エレクテウスの海>のあった場所であり、もう一つは 東の区画であった。このように中世期以降も 徹底的に変更されたり 再配列されたり 付け加えられたりしていて これがギリシャがトルコの支配から解放された時点まで続いている。そのため神殿の屋内も全く混沌としていて もともとはどの様に区切りが付けられ 各部の特徴がどの様なものであったのかを見分けることは 今日では極端に難かしくなっている。それにも拘わらず 現代に到るまで保存されて来た形跡とか 痕跡とかから、この神殿には横に走る壁面があって 東西の二つの室に分割されていたという結論に 学者たちは到達した。限りない労力を費やしたお蔭で 外面だけは 4 面ともやっと ほぼ完全に遺物を捜し出し 屋根を除く大体の外形を作り上げたが、この神殿に施されていた 驚くべく豊富な装飾物が数多く出土したのは 幸なことであった。
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