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アクロポリスの丘の上の記念建造物
 
 
 
 

○ アテ−ナ・ヒュギア女神像

○ プロピュライア入口門の南東のコ−ナ−の アテ−ナ女神の初期の祭壇の近くに、ピュラス Pyrrhus(訳注 484)が B.C.430 年に奉献した ブロンズで出来た <アテ−ナ・ヒュギア女神>の彫像が立っていた。プロピュライア入口門で ばりばり働き続けていた自分の最善の職人の一人が 非常に高い所から転落したが、幸にも彼は必ず治癒するという天啓が 夢の中でフイデイアスに告げられたことを感謝して、この像が奉献されたのである。

○ 奉献された幾つもの供え物

○ アクロポリスの丘のこの聖域には フイデイアスの作ったこれらの彫像が立っていた許りではなくて、忠実な巡礼者たちが 幾つもの<立派な>供え物を奉献していたことは 当然のことであった。アクロポリスの丘を飾り立てていた これらの神殿や記念像や芸術作品は、すべてが ほんの半世紀の期間の内に建てられたものであって、そのどれもが、クラシカル期のギリシャが本当に偉大であったことを 雄弁に物語る証しを残しているのであり、こんな理由から この年代は後年になって ギリシャの黄金時代と呼ばれたのであった。奉献された幾百もの供え物は 神殿の内に置かれるものもあれば、戸外に置かれるものもあり、大小の神殿や社の祭域の内にも外にも そしてクレピドマの上にも置かれていた。

○ ペイシストラトスの一族が支配していた年代は 特に供え物が沢山あって、このアクロポリスの丘の上のスペ−スはすべて アテネの人々の最愛の女神に献げられた 信仰と敬神の証しである供え物で 充ち溢れていた。このアクロポリスの丘の記念碑にとっては ペルシャ軍の行った破壊は 確かに大きな災害ではあったが、一方では この年代の夥しい数の供え物を 救済する原因にもなっている。この時に手足をばらばらに切り離された供え物が <パルテノン神殿に隣接した区画に>敬虔に埋められたお蔭で、 19 世紀末に 考古学協会の手で発掘されて 復元され、残って来たのであった。

○ 彫像自体とか その台座とか 台座のあった場所の岩石とかに 奉献の彫り込みが付いていて 今も残っていたり、証拠となる記録があったりして、これらの奉献物がすべてこのアクロポリスの丘の上にあったことが示されている。更に A D 2 世紀になってこの丘を訪れたパウサニアスは この地で見た夥しい数の芸術作品は<眼が眩(くら)む許りであった>と述べ、 65 以上の彫像やグル−プになった塑像の一つ一つについて 信頼出来る作者名を付けて 言及している。その中の主なものを挙げれば、プロクネ Procne(訳注 485)とその息子のイテユス Itys(訳注 486)の像は アルカメネスの作、パルテノン神殿の北東に立っていたアフロデイテ女神の像は カラミスの作、ペルセウス Perseus(訳注 487)の像はミュロンの作、ゼウス神の像はレオカレスの作であり、トロイ軍の馬の像は ストロンギュリオン Strongylion の作であった。ペルシャ戦争が終わった後 古代から行われて来たアテ−ナ女神の礼拝が 終焉を迎えるに到るまでの間に、アクロポリスの丘の上に置かれていた これらの夥しい数の奉献の供え物の 殆どすべては、完全に亡くなってしまったのである。

○ ペルクレスの成功を妬んだ反対者どもは 友人のフイデイアスに刃先を向け、アテ−ナ・パルテノス像の制作用の黄金の一部を横領して 自らの利益に供したとして フイデイアスを告発したが、女神の黄金のロ−ブの重量を実測することで 容易にこの嫌疑を晴らすことが出来た。後年になって、アテ−ナ女神の盾の上に 彼自身とペルクレスの肖像を入り込ませたことは不敬であるとして、非難を受けて投獄され、B.C.432 年に獄中で 病を得て死んだ。ペルクレスも 自分の天性の限りをつくして作り上げた このアクロポリスの丘を不朽の巨大な建造物と芸術作品とで飾り立てるという 自分の計画が完成するまで 生きてはいなかった。併し 彼の協力者たちが彼の意思を引き継いで 最終的にはその独創的な計画を完成させたのであって、アクロポリスの丘は、芸術の分野許りではなくて 科学の分野でも 頂点に到達していたことから、ギリシャの知性の中心地として 発展していった。アテネは ギリシャ全土の上に 特にギリシャが作り上げた西欧の上に 更には実に全世界の上に、輝かしい光を投げ掛けたのであった。

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