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アクロポリスの丘の上の記念建造物
 
 

(訳注 351) ニチュ niche
<壁龕>のこと。壁を凹状に抉(えぐ)った部分で、屡々ア−チや半ド−ムで覆われる。時にはそこに 彫像や花瓶などが置かれる。

(訳注 352) クラウデイウス一世帝 Tiberius Claudius Nero Germanicus
ロ−マ皇帝で 在位は AD 41 - 54 年。心身ともに薄弱で、即位後も世事を恐れて書斎人となり、政治は皇妃に委ねた。 48 年放逸な皇妃メッサリア Messalia を殺したが、その後再婚した姪のアグリッピナ Agrippina に毒殺された。

(訳注 353) バロック baroque
<不条理、不整形なもの>の意。西洋美術の中では 感覚的効果を狙い、バランスを欠くまでの動的な芸術表現をした 16 世紀後半から  18 世紀前半までの美術様式への蔑称として  18 世紀後半のフランス、イタリ−の芸術批判で用いられた。

(訳注 354) ニキアス Nikias
ニコデモス Nikodemos の子で、ネアイクモス Neaichmos がアテネのアルコンであった B.C. 319 年に 合唱団のコンテストで勝利を飾り、デイオニソス神の劇場の傍らに 記念碑を建てた合唱団長の名である。

(訳注 355) ヘレニステイック期 Hellenistic
B.C.334 年のアレクサンダ−大王の東征に始まり B.C. 30 年のクレオパトラ死歿までの凡そ 300 年間を言う。大王の遠征により ギリシャ美術がオリエント全土に拡大し、土着の文化的伝統と結び付いて 特色のある作品を生んでいる。特に 前期に当たる 180 年間が その最盛期であった。

(訳注 356) ペルガモン Pergamon( page 41 図 04 参照)
トルコ西部イズミ−ル Izmir 北方の小アジアの古代都市で、ヘレニステイック期に興こり、最盛期のエウメネス二世王の時 ヘレニズム文明の中心地として繁栄した。現在の名はベルガマ Bergama である。高いアクロポリスの上に ゼウス神の大祭壇、劇場、デメテル女神の神域などの遺跡がある。

(訳注 357) アッタロス二世 AttalosU
B.C.220 - 138 年。ペルガモンの王で、在位は B.C.160 -138 年。アッタロス一世の子で エウメネス二世の弟。愛兄王 Philadelphos と呼ばれ、ロ−マの忠実な同盟者として 東方の番犬役を果たす。文芸を庇護し ペルガモンを文化の一大中心とした。

(訳注 358) パンデモス・アフロデイテ女神 Pandemos Aphrodite
プラトン Plato で 哲学的論議の的となっているアフロデイテ女神の呼称の一つである。パンデモスは<すべての市民の女神>の意味で、ギリシャ的呼称である。アテネ、テ−ベ Thebes 、メガロポリス Megalopolis 、コス Cos などに見出されていて、この女神の東洋起源とそのギリシャ化を示すものである。

(訳注 359) ピュロン pylon
一般に古代エジプト(新王国以後)の神殿の入口をなす巨大な塔門。神殿正面の左右にほぼ台形の塔壁 2 基を築き、その中央に入口通路を設けたもの。壁面には彩色浮き彫りが施され、旗竿用の竪溝が設けられることが多い。元来ギリシャ語で<門>の意。

(訳注 360) アリストテレス Aristotle
B.C.384 - 322 年。ギリシャの哲学者で、カルキデイケ半島の小都市に生まれた。若くしてプラトンに学び、B.C.343 年には アレキサンダ−大王の師となる。実証主義的傾向が強く 哲学と科学とを結合させた。プラトンのイデア論を批判するが、根底には その哲学の影響が見られた。

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