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アクロポリスの丘の周辺
 
 
 
 


◎ アクロポリスの丘の南斜面にあった記念建造物と聖所

 デイオニソス・エレウテレウス神の聖所

○ デイオニソス神の劇場の南側の所に この神の聖所( page 37,図 01 - Nos. 3, 4, 5, 6)の位置がある。デイオニソス神の一番重要な社が 3 つある内の 一つであって、パウサニアスがその特徴を <一番古代の社>であると記述している。この聖所には入口が 2 つあり、片方は東を、他方は西を向いている。古代の<トライポド(三脚杯)の道>が 遠回りにこの聖所の周りを取り巻き、より古代のもの( page 37,図 01 - No.3)と 幾らか年代の新しいもの( page 37,図 01 - No.4)のデイオニソス・エレウテレウス神の小さい社 2 つと 祭壇 1 つ( page 37,図 01 - No.5)がその中にある。長いストア(列柱歩廊− page 37,図 01 - No.6)の位置は 北側にあり、そのストアの背面の壁は デイオニソス神の劇場の舞台との境界の役割を果たしていて、この両者の間には はっきりと機能としての関連がある。二つの神殿の内の小さい方は ストアの西端にくっ付いていて、B.C.540 年頃にペイシストラトス一族の人々が建てたものであり、<クソアノン>の神像(木製の未熟で素朴な偶像)を安置していた。このクソアノンの像は、この神の神官であったペガソス Pegasos が ボエオテイア地方のエレウテラエ Eleutherae(訳注 494)から持って来たものであったと 伝説は伝えている。13.50 x 8 m.の面積を持ったこの神殿の入口は 東を向いていた。イン・アンテイスの形式をとった神殿であって、パウサニアスの時代には 未だそこに建っていた。
○ B.C.4 世紀に建てられた もう一つの神殿は、21.95 x 10.5 m. の面積を持ち プロステユレ(前柱廊式)の形式をとっていて 以前のものより一回り大きく、デイオニソス神の金と象牙で出来た 彫刻家アルカメネスの作品の像を安置していた。この神殿は 以前の神殿の丁度南側の位置に これと平行して直ぐそばの所に作られ、同じように 東を向いて建てられた。

○ この二つの神殿と その各々に安置されていた彫像について、パウサニアスが言及している。今日ではどちらも 神殿の土台石が残っているだけに過ぎないが、ストアと祭壇の残跡は 現在でも未だ残っている。

◎ デイオニソス・エレウテレウス神の劇場

○ デイオニソス・エレウテレウス神の劇場( page 37,図 01 -Nos. 7, 8)といえば、隣り合わせになった この神の聖なる社のことを直ぐに連想するのであって、系統から見ても 機能的に見ても、文字通りその拡がり部分を構成するものである。

○ B.C.6 世紀の半ば頃の或る時 デイオニソス神のクソアノン像が エレウテラエから運び込まれて、この神の年代の古い方の神殿に安置された時、つまりは 今日その存在が知れている劇場が建築された時より ずっと以前に、マスクを被った人間が山羊に仮装し 円形になってバッカス Bakchos(訳注 495)賛歌の熱狂的な合唱の踊りを行う 宗教的な祭典が執り行われた。このバッカス賛歌の熱狂的な合唱の踊りは、平らにされた 直径凡そ 25 m.の円形の区画で行われた。この区画のあった位置は 年代の古い方の神殿の近くで 高い平面にあり、現存する劇場のオ−ケストラ( page 37,図 01 - No.8)と寸分違わぬ位置であった。踊りの演技をしている間 隣接したこの丘の天然の岩層を市民が使用した。

○ デイオニソス・エレウテレウス神の踊りの祭儀は、最も素朴な表現を構成する要素となったものであり、太古のギリシャ演劇の起源である。アクロポリスの丘の斜面にある デイオニソス神の劇場に新しい形態が発展し、舞台で舞台衣裳を着けたのであって、この新しい形態は アテネで演劇が発展し、<大デイオニソス祭 Dionysia(訳注 496)>の間に 演劇のコンテストを始めたのに続いて 生まれたものであった。

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