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アクロポリスの丘の周辺
 
 
挿絵 18) トラシュロスの合唱団記念碑の正面
(ウエルタ− G.Welter のスケッチ)

◎ トラシュロス Thrasyllus の
合唱団記念碑
( page 37,図 01 - No.9)

○ 記念碑のア−キトレイブ(軒縁)の上に付いている彫り込みによれば、ネアイクモス Neaichmosがアテネのアルコンであった B.C. 319 年に トラシュロスが合唱団で勝利を得た後で この記念碑を建てたとされている。デイオニソス神の劇場の背後の所の上方に小さい洞窟があり、この洞窟がこの記念碑を建てる目的のために利用された。岩山に出来たこの天然の窪みを この記念碑のスペックに合わせて切り刻み、高さが凡そ 6 m.ある 6.20 x 1.70 m.の面積の区画が創り出された。長方形をした入口の両側には 大理石の門柱 2 本が立っていて 枠取りになっている。この 2 本の門柱と中央にある第二の門柱、エンタブレイチュア(長押)と大理石の大きい入口門 2 つが、この入口を塞いでいた。段が 3 つ付いた台座の上にあるエンタブレイチュア上に 合唱隊の賞のトライポド(三脚杯)が置かれてあった。それから凡そ 40 年経った B.C. 270 年になって、コンテストの審判員で 古代のギリシャのゲイムズの会長であり、後年には ゲイムズの主催者を指した<アゴノテテス agonothetes>として トラシュロスの息子のトラシュクレスThrasykles が 勝利を 2 つ獲得した時に、父の置いた中央のトライポドの左右に トライポドをもう2 つ加えた。その土台石と奉献の彫り込みとは 今日でも尚見ることが出来る。パウサニアスが A D 150 年頃の或る時期に この記念碑を見たことがあるのは、殆ど間違いのないことなのであるが、これについては全く何の言及もしていない。併しアポロ神とアルテミス女神とが ニオベ Niobe(訳注 511)の子供たちを殺したのを描写していることを述べた時に、彼がその室について言及しているのは明らかなことである。但し、パウサニアスが述べているこのトライポド(洞窟上に今も立っているもの)が、トラシュロスのこの記念碑のものであったのか、この記念碑の上の方、岩山のずっと高い所に建てられていた 他の合唱団の円柱 2 本の内の一つのものであったのかは、明らかではない。

○ A D 200 年より後になって 記念碑の機能と形態とが変わり、トライポド 3 つの代わりに 同じ数の彫像が据えられたように見える。 18 世紀も中頃になって 1761 年に イギリス人の建築家のステユア−ト Stuart とリベット Revett とは、中央にあったトライポドの代わりに 婦人の座像の付いている記念碑のスケッチをしている。A D 3 世紀よりずっと後年になって それも 18 世紀より以前にことではあるが、この洞窟は キリスト教教会に変えられて、パナギア Panagia(訳注 512)・スピリオテイッサ Spiliotissa、つまり洞窟の聖母マリアに献げられた。

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