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アクロポリスの丘の周辺
 
 
挿絵 19) ニキアスの記念碑の西面を再構築したもの
 
 

◎ トラシュロスの記念碑の上方にある合唱団の円柱 ( page 37,図 01- No.10)

○ 現実にサイズが同じで 溝の付いていない大理石の円柱が 2 本、トラシュロスの記念碑の がっちりした天然の天井岩石のずっと上の方に、コリント式の三辺の柱頭を付けて 丈高に聳え立っている。この円柱が 同じ数の合唱団の賞のトライポドを支えるのに用いられたことを、柱頭 2 つの三角形が はっきりと示している。この円柱には ロ−マ時代の日付けが付けられているが、この円柱が奉献されたことを連想させるような出来事に付いては 何も判ってはいない。

◎ ニキアスの合唱団記念碑 ( page 37,図 01 -No.11)

○ この記念碑の ア−キトレイブ(軒縁)の上に付けられている彫り込みによれば、ネアイクモスがアテネのアルコンであった  B.C. 319 年に、ニコデモス Nikodemos の息子のニキアスが 合唱隊コンテストの勝利を飾ったのに続いて その後 この記念碑が建てられたものとされる。

○ 建物の形態としては、この記念碑は 16.68 x 11.79 m.の大きさの面積を持ち 西向きに入口があって そこにドリア式の円柱が 6 本立っている プロステユレのスタイルである。この記念碑の背面の壁のあった位置は デイオニソス神の劇場のカヴェア(観客席)の西端から  15 m.も離れていない所にある。エウメネス二世のストア(列柱歩廊)を作った建築家が この記念碑に敬意を払い、ストアのコロネイド(列柱廊)と合唱団の記念碑の正面とで 直角を創り出して 賢明にも二つの建物を繋げている事実に、古代において この記念碑が重要なものであり 輝かしいものであったということが 証明されている。

○ ニキアスの記念碑の中で 今日見ることの出来る部分は、ただ土台石だけに過ぎない。A D 267 年にヘルリアンの人々が侵入した後に、アテネの人々がこの記念碑を取り毀わし 急いでアクロポリスの丘の砦を築いた時に、ピラスタ− pilaster(訳注 513)とか ア−キトレイブとか トリグリュフ(三条竪筋溝)とか メト−ペ(小間壁)とか コルニス(軒蛇腹)といったような 土台の上に立っていた この建物の最も大切な建築部材は、ブ−レの門の塔の中に閉じ込められてしまった。パウサニアスは この記念碑については、何一つとして記述していない。

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