○ このア−ケイック期の噴水の南の方の位置に 面積が 5.06 x 4.25 m.の大きさを持つ 神殿の形をした小さい建物( page 37,図 01 - No.19)があったが、恐らくこれは テミス女神に献げられた神殿であったようである。
○ テセウスの息子のヒポリュトスに捧げられた社である <ヒポリュテイリオン>の建物と、<ヒポリュトスをアフロデイテ女神に重ねて祭る>社( page 37,図 01 -No.20)とは、テミス女神の小さい神殿の西の方 恐らく中世期に作られた噴水の近くにあると 伝説が伝えている。何れにしても この英雄の墓と社とは、アスクレピエイオンの建物が その同じ区画に創建された時点より以前に、既に建てられてあった。
◎ エウメネス二世王のストア(列柱歩廊)
○ <エウメネス二世王のストア>( page 37,図 01- No.21)は 長さが 163 m. で 幅が 17.68 m. の 非常に細長い二階建ての建物であって、ペルガモン王のエウメネス二世が アテネの町に寄進したものであり、B.C.2 世紀の前半に構築された。デイオニソス神の劇場の 大勢の観客に役立つことを目的としたストアであって、その位置は 劇場のカヴェア(観客席)の西にあり、背面の壁は ペリパトスの道の境界線上にあった。
○ 地面の平面の高さが違っていたことから、ペリパトスの道の土台石よりずっと低い平面から ストアの土台石が見出されている。ストアの北面の壁が建てられる前に 一列になったア−チの付いた擁壁を その上部に構築する必要があったのは、このためである。1 階から上の階とペリパトスの道の平面へは 階段で繋がっており、その階段は、このストアの狭い東側沿い 丁度ニキアスの合唱団記念碑の北の所に とり付けられていた。
○ このストアに イオニア式のコロネイド(列柱廊)が付いていたことは 殆ど間違いのない所であり、このコロネイドの内部は 恐らく 32 本の円柱から成っており、正面には別個に 円柱が 64 本ある ドリア式のコロネイドがあった。
○ エウメネス二世王のストアは もともとはデイオニソス神の劇場と 後年にはヘロド・アッテイコスのオデイオンと 結び付く機能を持った建物であって、この二つの構築物の間の区画一ぱいを占めて その装飾ともなっていた。
◎ ヘロド・アッテイコスのオデイオン ( page 37,図 01 - No.22)
○ <ヘロド・アッテイコスのオデイオン(奏楽堂)>のある位置は アクロポリスの丘の南斜面の西の端の所であって、数世紀もに亘って音楽と演劇の芸術に貢献すべく奉献された この区画にある堂々とした公共の大建築物の 最後に来るものである。
○ 有名な雄弁家であり ソフイスト sophist(訳注 515)であり ロ−マの領事でもあったヘロド・アッテイコスが、A D 160 - 161 年に このオデイオンの建築に取り掛かった。このオデイオンは 同じ年に死んだ 彼の妻レギラ Regilla を追憶して建てられたもので、芸術的な表明をしたり 汎ねく他の文化的な表明もしたりすることが出来るように 用いられる予定になっていた。アッテイコスは、A D 101 年にアッテイカ地方のマラトンで生まれ 後に巨大な財産を相続したが、その財産を処分して アッテイカ地方許りではなくて ギリシャの他の地域でも 同じ様に多くの公共の建物を構築し、彼の年代の芸術保護者と見做されたのであったが、これは当を得たものと言える。このオデイオンの建築には 厖大な額の金銭が費やされたが、A D 267 年にヘルリアンの人々が侵入して来て これを破壊した時までは、恐らくアテネへの寄贈者が行った 最後の大きい提供であり、同時に この市の有名な飾り物でもあった。
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