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アクロポリスの丘のその後の変遷
 
 
 
 


○ アテ−ナ・ポリアス女神は ビザンチン期に到るまで崇拝されていたが、B.C.5 世紀の間を通じて 非常に強かったその信仰心は もはや冷たくなり始めていた。多くの哲学者たちの教えもあったし、大勢のソフイストたちの説いた 幻想から目を覚まさせる学説が、偉大な守護女神に対するアテネの人々の信仰心をぐらつかせた。オリムポスの山の頂上にまで昇りつめた アッテイカ地方の芸術も亦 その年代の支配者に屈服して、神が世界を統治することへの賛歌を謳たうことはしなくなり、その芸術は強者の女召使いとなって その肖像を作った。

○ そうは言っても このアクロポリスの丘の上には、どの年代もが そのマ−クを残している。例えばアレキサンダ−大王は グラウニコス河畔の戦いで勝利を収めた後、ブロンズ紛いに塗ったヘルメットを 女神に奉献物として贈り、これらが パルテノン神殿の東西両正面に吊り下げられた。アテネの僭主ラカレス Lachares は アテ−ナ女神の金と象牙とを被せた彫像に付いていた黄金の宝石と一緒に これらのヘルメットも取り去って、B.C.298 年に ボエオテイアに自分で持って帰ってしまった。

○ アテネとギリシャの偉大さと豊かな富とについてのこの名声は、<世界の果て>に到るまで拡まり、このギリシャの領域に入れ替わり立ち替わり 波となって流れるように押し寄せて来て全てを征服した 夥しい数の人々の妬みと強欲とを喚び起こしたのであって、ロ−マ人、ゴ−ト族 Goths(訳注 525)、ビザンチン帝国の人々 Byzantines(訳注 526)、スラブ人 Slavs(訳注 527)、フランク族、スペインのカタロニア人 Catalans(訳注 528)、イタリ−のフイレンツエ人 Florentines(訳注 529)、ヴェネチア人 Venetians(訳注 530)及びトルコ人が それらの人々であった。

○ ロ−マ年代 ( B.C. 146 年 - A D 395 年)

○ 500 年以上に亘って ギリシャを占領したロ−マ人は、夥しい数の彫像を運び去ってしまった。スラとネロ帝の二人だけで  3500 以上の塑造美術作品を、自分の宮殿や住居を美しく飾るために ギリシャからロ−マへ運んで 持ち戻った。これとは対照的に、ハドリアン帝 Hadrian(訳注 531)やヘロド・アッテイコスは 素晴らしい建物を幾つも建てて、アテネを豊かに飾った。こうしてアテネの運命は、 一人一人の皇帝や統治者が 善意であるかどうかによって 左右されることとなった。

○ ロ−マの人々は アクロポリスの丘の記念建造物に 危害を加えることはなかった。イオニア式円柱が 9 本立ったペリステユレ(繞柱式列柱廊)の付いた 丸屋根のある円形建築ロウトンダが、ロ−マとアウグストス帝とに奉献されている( page 97 参照)し、プロピュライア入口門の入口の北側には アウグストス帝の養子のアグリッパスに敬意を表した像が 大理石の台座の上に建てられた( page 71 参照)。

○ カリグラ Caligura(訳注 532)の治世期の A D 40 年にロ−マの人々は プロピュライア入口門の入口の前面に アグリッパスの記念碑から アテ−ナ・ニケ女神の神殿のあるニケ・ピュルゴスの高台まで 幅一ぱいに拡がった 堂々とした不朽の階段を作った。中央の区画は 犠牲の動物が通るのに十分な  3.51 m.の幅を持った道路として 段を付けない設計になっていた( page 69 参照)。ハドリアン帝治世期の 凡そ A D 120 年頃に 単に装飾の性格を持つだけの塔が 2 つ この道が始まる場所の側面に並んだ。A D 161 年の少し前に ヘロド・アッテイコスは、大理石の席が段になって付いているオデイオンを アクロポリスの丘の南斜面に建てた( page 136 参照)。
○ A D 4 世紀の初めに 首都をビザンテイウム Byzantium(訳注 533)に移した ロ−マの皇帝コンスタンチン大帝 Constantine the Great(訳注 534)は、キリスト教の信仰を 国家の宗教にすると布告した。

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