○ アテネはこの時期までに、既に昔の輝きも栄光も 総べてを失ってしまっていた。今では 余り重要でない 鄙びた田舎町以上の何ものでもなかった。確かにこの時期までは アクロポリスの丘の上の記念建造物は 殆ど損害を受けてはいなかったけれども、嘗ての時代の崇高な儀式の祭典の中で その時まで残っていたものは、何一つとしてなかった。アクロポリスの丘は今や 一種の美術館と見做されたのであって、祈祷式とか 犠牲とか 貢ぎの供え物とかが奉献される 神々の住居と見做されたものではなかった。
○ A D 435 年頃になって 皇帝テオドシウス二世 Theodosius U(訳注 535)は、太古の神々の礼拝から 法律上の恩典と保護とを奪った。その結果として アテ−ナ・プロマコス像が アクロポリスの丘から取り除かれ、この像が辿ったその後の悲運については 何一つ判っていはない。アテ−ナ・パルテノス女神の像も亦 コンスタンチノ−プル(ビザンテイウム)に運び去られてしまった。
○ アテネの人々は ペルクレスの年代以降ずっと アクロポリスの丘の記念建造物が賞賛を受け 崇敬を受けるのは、当然のことであるとして来た。この記念建造物は 自分たちの父祖の 敬虔な信仰の記念であったと見做し、又卓越した芸術作品であったと見做すことを 一度も止めることがなかったのであった。アテネの人々がキリスト教の信仰を選択した時にも これらの記念物を決してずたずたにしたりすることなく、キリスト教の教会に 形を変えてしまったのは、こうした理由で説明される。
○ パルテノン神殿の内部は このようにしてキリスト教の教会に形を変えられた。その入り口は 西側の端面にあった。この神殿をケラとパルテノンの部屋とに分けて 横に走っていた壁面には穴が開けられて ドアが 3 つ付けられ、天井には丸天井が付けられ 壁面一ぱいに キリスト教の聖者たちのフレスコ画で埋められた。外面は相変わらず 昔のパルテノン神殿のままであった。この教会は最初は <神の賢者>ハギア・ソフイア Hagia Sophia(訳注 536)に奉献されたものであり、後になって その名を<パナギア・アテニオテイッサ Panagia Atheniotissa>と改められた。エレクテウム神殿の方も亦 <パナギア・テオトコス Panagia Theotokos>(神の全聖の母)というタイトルを付けて、教会に形を変えられた。
○ 皇帝バシル二世 BasilU(訳注 537)は ギリシャに侵入したブルガリア人を打ち破った後で、軍隊を引き連れて テッサリ−地方からアテネにやって来て、<パナギア・アテニオテイッサ教会>に自分の勝利を感謝した時が、このビザンチン期の全体を通じて アテネのアクロポリスの丘で 本当の祭典の挙行されたのが見られた たった一度のことであった。
○ 中世からギリシャの独立まで
○ A D 1204 年になって ラテン系の十字軍戦士が コンスタンチノ−プルを陥落させた時に、フランク族のオトン・デウ・ラ・ロシュ Othon de la Roche(訳注 538)がアテネにやって来て、自らを<アテネの大君>と称し、当時砦のように要塞堅固となっていた アクロポリスの丘の上に 自分の随員全体と一緒に 居を構えた。こうしてフランク族が支配していた期間中はずっと アクロポリスの丘は再び アテネの焦点となった。パルテノン教会にも 若干の変更が加えられ、 1209 年には<アテネのサンタ・マリア Santa Maria di Atene>の教会となった。
○ A D 1311 - 1387 年にはカタロニア人が、フランク族の後を継いで アテネとアクロポリスの丘の領主となった。彼らはそこに スペイン公国を創設した。併し 1387 年には フイレンツエ軍がネリオ・アキアジュオリ Nerio Acciajuoli(訳注 539)のもとで カタロニア人を追い払って その交替をした。アキアジュオリは プロピュライア入口門に宮廷を設置して、その南側に 高さ 25.91 m.の四角い塔を加えた。
( 140 ) |