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アクロポリスの丘のその後の変遷
 
 
 
 

○  A D 1458 年になって この砦の駐屯軍は、その何年か前にコンスタンチノ−プルを征服していたトルコ軍に 城を明け渡すの己むなきに到った。トルコ軍は 1466 年には パルテノン神殿を改造して、てっぺんに尖塔の付いた 回教寺院にしてしまった。トルコ軍の司令官のデイスダ−ル Disdar は、エレクテウム神殿の中に 自分のハレム Harem(訳注 540−婦人部屋)を割り当てた。

○ アクロポリスの丘の記念建造物は この時点まではその主要な形態を殆どそのまま残していたが、375 年間にも及んで続いたトルコの支配は、この遺跡に最大の荒廃を与えるものとなった。プロピュライア入口門にトルコ軍が設置した火薬庫に  1656 年に落雷があったのが、この災害の始まりであった。この落雷で 中央のホ−ルが爆発し、粉々に毀われてしまった。その後トルコ人は、 1687 年まで損傷を受けることもなく ニケ・ピュルゴスの高台の上に立っていた アテ−ナ・ニケ女神の神殿を取り壊してしまった。プロピュライア入口門を改造して 要塞化された砦とするのに必要な建築材を この芸術破壊行為をすることで 用立てた。アテ−ナ・ニケ神殿を取り除いて 作り出された広々としたスペ−スは、ヴェニスのド−ジ doge(訳注 541- 総督)のフランシスコ・モロシニの攻囲軍を トルコ軍が砲撃するための 砲撃用敷地としての役目を果たした。

○  1687 年 9 月の夕刻 7 時に ヴェネツイア軍の砲弾が パルテノン神殿を直撃した。回教寺院の中のこの場所に トルコ軍は又しても 火薬庫を設置していて、爆発で建物全体が震動した。内陣の内部にあった壁面は どれも崩れ落ち、その時フリ−ズのざっと 3/4 許りを 一緒に破滅させてしまった。北面と南面とでは、円柱 28 本ががらがらと崩れ落ちた。この破局を決定的なものとしたのは 人間の手であって、アテ−ナ女神とポセイドン神との間の抗争の場面を 彫刻で描き出した西破風の中央の区画を、モロシニ総督は 自分の偉大な功績を記念する戦利品として、ヴェニスに持ち帰りたいと願った。ヴェネツイア人たちのやった仕事は 余りにもぎこちないものであったので、偉大なこの芸術作品の破壊砕片が 沢山地面一ぱいに散らばった。

○ トルコ軍が征服する前の 1436 年頃に 旅行の途次アクロポリスの丘を訪れたアンコナ Ancona(訳注 542)のシリアク Cyriac は、アテネのサンタ・マリア教会の中に <パラス・アテ−ナ女神の神殿>があるのを認知して、その素描を作った最初の人物であった。添付された手控え書きを見ると 眼に入った総べてのものに 彼が悦びを覚えたのが見受けられている。

○  16 世紀から 17 世紀にかけて 更には特に 18 世紀の間中、クラシカル期のギリシャの讚美者である多くの外国人が、アテネとアクロポリスの丘とを訪れ始めた。その中には これらの記念建造物を賞讚する記述を残した人も多かったし、 1674 年に訪れたジャック・カリ− Jaques Carrey のように パルテノン神殿の塑造美術品をスケッチした人もあった。こうした記述やスケッチ画があったお蔭で 破局以前にこれらの記念建造物ががどんな有様であったのかという アイデイアを持つことが出来たのであって、それ故に価値が大きいものであった。

○  1687 年に起こった破壊行為の後には 外国からの訪問者は往々にして 最早芸術作品を賞讚したり 描写したりするだけでは満足せず、自分の訪問を示す真正の土産物として 彫刻の付いた大理石を 数片持って帰ることが良くあった。こうしてシュアスル・グ−フイエ伯爵 le Comte de Choiseul - Gouffier は アテネ駐在のフランス領事のフオ−ベル M. Fauvel の助けを藉りて、自分が破壊物の砕片から救い出したフリ−ズ及びメト−ペ 2 つの一部を フランスに持って帰ることが出来た。

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