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アクロポリスの丘のその後の変遷
 
 
 
 

○ この点に関して言えば、ギリシャの神殿に対して 最も嘆かわしい罪を犯した者は、スコットランド貴族のエルギン卿であった。彼が <彫り込みとか 人物像とかの付いた石塊の幾つか>を取り除くことを許可した トルコ皇帝スルタン Sultan(訳注 543)から出された勅許という防具に身を護られて、絵師のルジエリ Lusieri の監督の下 数人の職人を引き連れて アクロポリスの丘に登り、パルテノン神殿からその装飾の塑像を 殆ど完全に取り去ってしまったのであって、それは彫像 12 体、フリ−ズから取った厚板 56 枚、メト−ペ 15 ケ、女人像柱 1 つ、エレクテウム神殿の北東側にあった円柱 1 本及びアテ−ナ・ニケ女神の神殿の重要部分の幾つかといったものであった。略奪したこれらの収穫品を 意気揚々とロンドンに持ち帰り、 1816 年にイギリス政府に 35.000 ポンドで売り渡した。これらは<エルギン・マ−ブルズ Ergin Marbles>(訳注 544)と呼ばれ、今では大英博物館に展示されている。

○ ギリシャの独立後

○  1821 年に起こったギリシャ革命から 12 年経って 繰り返して行われた包囲攻撃に耐えた後で、トルコ軍はアクロポリスの丘を己むなく見棄てざるを得ないこととなった。その 1 年後ギリシャは君主制を採ることを宣言し、アテネがその首都と宣言された。バヴァリア Bavaria(訳注 545)のウイッテルスバッハ家 House of Wittelsbach (訳注 546)のオット− Otto(訳注 547)が 即位した。アクロポリスの丘の上では その直後に 考古学者のピッタキス K.Pittakis の監督に下 夥しい人数の外国の仲間と協力して 発掘作業が遂行された。後代になって 記念建造物にくっ付けられたものを 総べて取り除くことが、最初に着手した課題であった。 1837 年に設立された考古学協会が その時以来 発掘作業の監督と建造物の再建との 世話役を引き受けて来ている。

○ 更に発掘作業は 考古学者のカヴァデイア P. Kavadia がリ−ダ−シップを執って 1885 年から 1891 年までに亘って 手広く遂行された。貴重な出土品も数多く 日の目を見たのであって、その中には パルテノン神殿とエレクテウム神殿との間に建っていたもので その時点まで未知であった神殿の土台石も亦 含まれていた。エレクテウム神殿の北から コレ−像が 14 ケ出土し、 2500 年許りも経った後の 今日になって初めて 再び白日の下に曝らされることとなった。

○ パルテノン神殿の南方にある テラスと呼ばれる区画からは、大理石の彫像とか 神殿や他の建物に付属する 独立した多くのその部分石とかいった 多様な多孔性石灰石の彫刻された物が出土した。<翼のないアテ−ナ女神>の神殿は、プロピュライア入口門の要塞装備が 用心深く撤去された時に 再発見された旧(もと)の部分石を使って、殆ど完全に再建された。 1852 年から 1853 年頃にかけて フランス人の考古学者ア−ンスト・ブ−ルは、プロピュライア入口門の西側を掘り返した。その時 ロ−マ時代に作られた 2 つの塔の間に 大理石で出来た出入り口門が出土したのであって、それ以後 彼に敬意を表して名付けられた <ブ−ルの門>として知られている。(p.55参照) ハインリッヒ・シュリ−マン Heinrich Schliemann(訳注 548)は プロピュライア入口門の内部にあったフランク族が作った塔を  1875 年に取り壊すのに要した費用を 負担した。建築家のバラノス N. Balanos の指揮の下に プロピュライア入口門、エレクテウム神殿及びパルテノン神殿復元の大事業が遂行された。

○ アクロポリスの丘の上で 何回にも亘って行われた発掘作業の間に出土した 多孔性石灰石とか 大理石とかの彫刻物は、 1874 年から第二次世界大戦の後までは 古いアクロポリス美術館に収蔵されていた。それ以降は 新しく建てた現在のアクロポリス美術館に収蔵されているのであって、ヤニス・ミリアデス Jannis Miliades 理事と その協力者であるムロス K. Mulos、デメトリアデス D. Demetriades、ペラキス D. Perrakis とが この新しい建物の近代的なレイアウトとその配置とを 責任を持って引き受けたものである。

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