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アクロポリスの丘のその後の変遷
 
 

(訳注 499) アリストフアネス Aristophanes
B.C.450 年頃 -385 年頃。アテネの喜劇詩人で、生涯の詳細は不明。時流に反対の保守的立場で、終始平和論者として ペロポネソス戦争中活躍した。B.C.404 年のアテネ敗北後の晩年は 中期喜劇の傾向が見られた。作品は 機知と諧謔、奇抜な空想と甘美な叙情味に富んだ。指導的人物の戯画や 民衆の生活の描写も見られる。

(訳注 500) カヴェア cavea
ラテン語。古代ロ−マ劇場の観覧席である。多くの場合は 傾斜地を利用して築かれた 半円形の階段席であるのが普通である。

(訳注 501) パラスケニア paraskenia
古代ギリシャ・ロ−マの劇場の スケ−ネの両端で前面に突き出した 方形の翼の四角い区画を言い、スケ−ネの両端に 左右対称に置かれている。B.C.5 世紀から 3 世紀にかけて行われた 劇場の改造で付設されることが多かった。

(訳注 502) プロスケニオン proskenion
<スケ−ネの前>の意。古代の劇場で スケ−ネとオ−ケストラの間の パラスケニアと背景とで囲まれた部分を言う。B.C.5 世紀に栄えたギリシャ演劇では 俳優は当初は 円形のオ−ケストラで演技をしたが、やがて 楽屋のスケ−ネが 演技に必要な背景の役割りを果たすようになると、その前の場所がプロスケニオンと呼ばれて 舞台となった。

(訳注 503) リュクルゴス Lycourgos
B.C.390 年頃 -324 年。アテナイの雄弁家で イソクラテスの弟子。アテナイの財政に当たり(B.C.338 - 326 年) 公共建築の装備を促進し、詩人の彫像で市を飾り 文芸作品の保存に意を用いた。愛国者で、デモステネス Demosthenes の同調者とされる。

(訳注 504) メナンドロス Menandros
B.C.342/341 - 291/290 年。アテナイの上流家庭の出の 後期の喜劇作家。B.C.321 年以降 100 余篇を作った。市井の些事を主題とし 生粋のアッテイカ方言を用い 人情、性格を巧みに描写した。生涯アテナイにとどまり、遊泳中溺死した。生前は 後期喜劇作家のフイレモン Philemon の名声に隠れたが、死後の盛名は これを凌いだ。

(訳注 505) グラデイアトル gradiator
ロ−マ人の娯楽である 真剣勝負のために養われた奴隷で、剣奴と訳される。この闘技は エトルリアに起源を発し、ロ−マでは B.C. 264 年頃に始まり 次第に大規模となって流行した。彼らは 戦争の捕虜、購買奴隷、犯罪人などで 養成所で訓練され、重装して剣をふるう者から 軽装で網や三叉戟で戦う者まで 若干の種類があった。

(訳注 506) アレ−ナ arena
ラテン語。<砂>の意。古代ロ−マの闘獣用の 大規模な円形又は長円形の闘技館のアンピシアタ− amphitheatre で、中央に砂を敷いた闘技場である。地下に 獣類を入れる室房及び通路を設け、周囲に 雛壇式観客席を配したものもあった。

(訳注 507) デモス demos
一緒に居住する集団=氏族を原義とする ギリシャ語。村落共同体、ポリス市民団の民会、貴族に対する平民、ポリスの下部組織としての行政区、或いは国家そのものを意味することもあった。アッテイカの行政区としては  B.C. 508 年頃クレイステネスの改革で成立し、500 人評議会の評議員が デモスの人口比で選出されたと推定される。

(訳注 508) ヒュポステユロン hypostylon
<多柱式建築>。多くの列柱で天井を支える方式を 多柱式と呼び、そのようにして作られた空間を 多柱室と言う。古代エジプト神殿の多柱室は その最も有名な例である。ハイポスタイル hypostyle と同義である。

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