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アクロポリスの丘の上の記念建造物
 
 
 
 

 アクロポリスの丘の西端にあるもの

○ アクロポリスの丘への昇り道

○ アクロポリスの丘の西端は 狭くて傾斜が付いており、岩はごつごつしているけれども そのあるがままの状態で出入りすることも出来て この丘への出入りに適しており、障碍物のない唯一つの入り口であったと言える。麓からずっと高い所にあり 岩の表面が滑らかで平らに均されているアクロポリスの丘に入ってゆくこの道が 継続してずっと用いられ、幾度も色々と改造されながら 数世紀もの間色々な形態を採って来たのは、こうした理由に因るものである。

○ 新石器時代から前史時代全般を通して、そのあるがままの輪郭と形態とに従って アクロポリスの丘のてっぺんに達するこの道が 使われていたに違いない。前史時代にこの道があったのは、この丘の上に宮廷が存在し 定住民が大勢住んでいたことを前提としたものであった。ミュケナイ期になると この岩山を城塞化する工事が行われたのと前後して、恐らく登攀を容易にするためと思われるが 前史時代の道を螺旋状の一段と幅の広い道に取り替える工事が行われたのは、確かなことである。

○ 亜ミュケナイ期とジオメトリック期との年代に、この岩山に近付く辺りの 後年に出来たエネアピュロンの門( 9 つの門)の所で途切れている区画では、防禦という理由で 重大な妨害が始めて発生した。扶壁がその形を作っている 螺旋状の登り道がずっと伸びており、この扶壁には 夥しい数の入口門が次々と続いて付けられていて、防衛用の稜堡で守られていた可能性が 極めて高い。この道はアクロポリスの丘の キュクロプス族が作ったプロピュロン(神殿門)の所で 終わっていた。記述されている限りでは、アクロポリスの丘に通じるこの入り口は 神々と英雄たちとに奉献された祭壇とか 小さい社とかを 内に囲い込んだ形をしていて、B.C.566 年になって 堂々とした入り口が新しく建てられて、パンアテナイア祭が再編成された時点まで残っていたのであって、この新しい入口門が出来たお蔭で パンアテナイア祭の行進に参加する大勢の人々が 妨害を受けることなく動くことが出来たのであった。

○ この入口門には、ポロス石の多孔性石灰石で出来た 斜めに傾いた擁壁も付いており、この擁壁は 幅 10 m.、長さが凡そ 80 m.の傾斜した縦の平面を作って この丘の麓の所で始まり、アクロポリスの丘の この入り口の所で終わっていたが、そこにはアクロポリスの名に相応しい 堂々たる<プロピュロン>が この年代を通してずっと建っていた可能性が高い。この入り口の北側の擁壁の一部は <多角形の polygonal>やり方で構築されていて、ブ−ルの門の東の方で 今でも見ることが出来る。

○ アクロポリスの丘に昇る入り口が クラシカル期には 現在と同じ場所であったであろうことは、略々間違いがない。下の方から昇って来る道が この丘の南面で ケラメイコスとアゴラとから来た パンアテナイア祭の道と合流し、ニケ・ピュルゴスの高台の下を通り過ぎていた。動物が滑らないよう 岩盤に轍(わだち)が付けられたが、擦り減ってしまった。このニケ・ピュルゴスの砦は 丘全体から西方に突き出していて、クラシカル期には 多孔性石灰石の層石で上張りされていた。西側にニチュ niche(訳注 351 - 壁龕)が 2 つ付いていたが、これは信仰上のものらしく その中には小さい祭壇か 彫像かが 幾つか安置されていた。ムネシクレスの作った新しい設計に従って B.C. 437 - 432 年に このアクロポリスの丘への昇り口の幅が倍に拡げられ 新しいプロピュライア入口門が建てられた時まで、この丘に通じる B.C.6 世紀のこの堂々たる入口門は 形を崩さないで残っていた。ブ−ルの門の北側の矢倉の東の方に 遺物になって残っている 斜めになった扶壁の北側の部分であるとか、天然の岩山の見える南の方に向かい合ってある 同じように斜めになっていて 輪郭のはっきりした壁面であるとかに、その姿の一部が 可成り良く現われている。

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