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アクロポリスの丘の上の記念建造物
 
 
 
 

○ A D 3 世紀には プロピュライア入口門の西側までの区画が やりくり壁面で要塞化されており、この壁面は 古代の記念建造物の材料石を使って 作り上げられたものであった。この要塞化は A D 267 年に完成したものであって、門が 2 つと その左右に多孔性石灰石で出来た矢倉が 2 つ付いていた。この門の内の一つは、 1852 年に発見した フランスの考古学者の名をとって ブ−ルの門と呼ばれ、アクロポリスの丘に到る 現在の入り口になっているが、発見されるまで 長く地下に埋もれてしまっていて、トルコ軍がその上に要塞を作っていた。デイオニソス神の劇場に近い エウメネス二世王のストア(列柱歩廊)の東側に 合唱団長ニキアス Nikias(訳注 354)の記念碑が作られており、A D 400 年にはこれが破壊され その材料石がこのブ−ルの門を作るのに使われていることから見て、この門はそれより後の年代に作られたものと見られる。左右に付いている 2 つの矢倉の作られた年代は もう少し古いが、それとてもクラシカル期に作られたものではない。ブ−ルの門は 壁面が貧弱で、戦闘用のものとは 到底考えられない。装飾用に作ったとも見られるし、ロ−マ時代に作られた アクロポリスの丘への昇り口の 大きい大理石の階段との対照を作ろうとしたものとも見られている。

○ アポロ・アギュイエウス神の祭壇

○ アクロポリスの丘の入り口の所、ブ−ルの門の東方に 多角形の城壁と隣り合って、ポロス石で出来た ア−ケイック期の祭壇( page 37 図 01 - No.34)がある。ロ−マ時代に付けられた アポロ・アギュイエウス神にという彫り込みが 近くで見付かっていて、この入口門の守護者たちがアクロポリスに奉献した 他の祭壇のことについて伝えているが、この彫り込みから この特定された場所で <アギュイエウス>の添え名の下に アポロ神が礼拝されていて、この入り口と道との保護者であったと 推論されている。

○ アテ−ナ・ピュラテイス女神の社

○ ニチュ(壁龕)が 2 つ付いた アテ−ナ・ピュラテイス女神のこの社( page 37図 01 - No.35)のあった位置は アテ−ナ・ニケ女神の神殿のある高台の 西側の所であって、アクロポリスの丘に通じる入口門と 直接繋がっている。今日では入って来た時に この社のあるのを、ブ−ルの門の右の所で見ることが出来る。古代には巡礼者は 神に奉献する自分の捧げ物をここに置いて 頂上に登る前に 言うなればこの聖なる岩山に対する 最初の巡礼行為を行ったのである。アテ−ナ・ピュラテイス女神は、聖なるこの岩山全体に入る入り口を防衛し、保護する女神であった。

○ アテ−ナ・ピュラテイス女神のこの社は、丁度第 2 次大戦前に ニケ女神の神殿のあるこの高台を取り毀わして 復元した後に、出土したものである。

○ エウメネス二世王の台座 − アグリッパスの四頭立て二輪戦車像

○ この入口の区域の中にあって プロピュライア入口門の北翼の南西隅の下方に、ニケ女神の神殿のある高台と殆ど同じ高さの所に 13.40 m.の高さを持った イミトス山産の青っぽい大理石で出来た 極端に丈高の台座があるのが見られる。その台石(page 37 図 01 - No.36)は ヘレニステイック期 Hellenistic(訳注 355)に作られたもので、高さが 4.50 m.あり 各面の大きさは 3.30 x 3.80 m.である。この台座の上には もともとペルガモン Pergamon(訳注 356)王のエウメネス二世の ブロンズで出来た四頭立て二輪戦車像が立っていたという事実が判っており、その彫り込みの痕跡は アグリッパスの彫り込みの下に ぼんやりと見ることが出来る。この王自身及び彼の兄弟のアッタロス二世 AttalosU(訳注 357)は 騎乗者であって、B.C.178 年のパンアテナイア祭のゲイムズにおいて 勝利を得た者であった。

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