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アクロポリスの丘の上の記念建造物
 
 
 
 

○ B.C. 27 年頃 エウメネス二世のこの四頭立て二輪戦車像が もう一つ別のアグリッパスのブロンズ製の 四頭立て二輪戦車像と取り替えられたことは、この台座の西側に見られる 奉献の彫り込みの示している通りである。アグリッパス自身が 戦車を馭している像で、アウグストス帝の養子のアグリッパスが この像の寄贈者であり、B.C. 27 年にアテネの市民たちが 彼を称えて作ったものであることが知られる。その結果この記念碑は アグリッパスの台座の名で知られている。

○ ニケ・ピュルゴスの高台の下の辺りには アエゲウス王の神殿やパンデモス・アフロデイテ女神 Pandemos Aphrodite(訳注 358)の神殿など 古い神殿が幾つかあった。

 プロピュライア入口門

○ アクロポリスの丘のプロピュライア入口門( page 37 図 01 - No.37)は その構成が堂々としたものであって、この聖なる岩山の上にある他の多くの神殿や社と 肩を並べる程の重要性を持つた構築物である。建築家のムネシクレスの作ったデザインに従って 昔のプロピュロンのあった場所にア−ケイック期後期になって建てられた このプロピュライア入口門は、ペルクレスが このアクロポリスの丘を飾り立てようと企図した 壮大な目論見に帰属する 構築物の中の一つである。

○ このプロピュライア入口門を建立する工事は パルテノン神殿が出来上がった後の B.C.437 年に始められて、B.C.432 年まで続けられた。これ以上早く着工することが出来なかったのには 理由があって、一つにはパルテノン神殿の造営に建築家や職人たちの手が 未だずっと取られていたことにも因るが、又一方では アクロポリスの丘の上に通じているこの入り口だけが 神殿を建築するのに必要な大理石塊を 丘の上の建築現場に運搬することの出来る 唯一つの通路であったことにも因るのであった。この入口門が先に建てられると 材料石の運搬がきっと難かしくなったことであろう。

○ 古代の聖所は 低い壁がその周りを取り巻いていて、入口門のピュロン pylon(訳注 359−塔門)が その壁に必ず付いていた。領域を持たない聖所も 時にはあったが、それでも ピュロンは付いていた。古代の人たちがその形を好んでいたこともあって、神殿の建っていない戸外の聖所でさえも 装飾としてピュロンが付けられていた。このピュロンのもともとの起源は 詰まらないものであったが、木の幹が大理石の円柱に替わり、その大理石が 彫刻の付いた装飾で飾られるようになると、ピュロンは正しく記念建造物となった。<建築物はもともとは 生活の実際の必要に役立てられ、その後で 生活に美を加える芸術となった。>というアリストテレス Aristotle(訳注 360)の言葉が、ピュロンのこの自然の発展の中にも見られるのである。

○ このプロピュライア入口門は パルテノン神殿の造営に続いて建てられた建造物の大傑作であって、 2012 タレント talent(訳注 361)に及ぶ金額が この建造に費やされたと 文献が伝えている。ペンテリコス山産の大理石で出来ていて、中央区画の構築物と 南西と北西との両側に張り出している翼部 2 つとから成っていた。

○ 入口門の前面では 正面の中央に一段と高いプラットフオ−ムの 基段となるクレピドマがあって、大理石の段が 4 つ付いており その上に円柱が 6 本立っていて、年月が経過したことで随分と毀われてはいるけれども 落ち着いた静けさと壮大な均斉とを示している。この 6 本のドリア式円柱は上部で 台輪のエピステユレ epistyle(訳注 362)で繋がっていたが、その台輪は今は残っていない。台輪の上にはフリ−ズ(小壁)があって トリグリュフ(三条竪筋溝)とメト−ペ(小間壁)とに分かれており、更にその上には 左右両側に傾斜した屋根が形作り出した破風が載っていた。北側と南側に張り出している 両翼の建物の間に挟まれて、少し奥まった窪みに この入口門が建っていて、つまりはこのアクロポリスの丘を訪れて来る人々を 敬虔な礼拝者として手を拡げて迎え入れている形になっていたのである。

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