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アクロポリスの丘の上の記念建造物
 
 
 
 

3) 未完成

○ この入口門の当初の設計では、南翼は元々は 北翼と同じ形であった。北翼の画廊側の建物の西壁は 直ぐ外が峻わしい岩であったので、開放にしておくことは出来なかったが、南翼の側の建物の西面は、アテ−ナ・ニケ女神の神殿に行く通路を付けるために 壁面に代えて柱列廊を作る計画であり、これが唯一つの相違点であった。この柱列廊は遂に作られず、北西隅には 壁柱が 1 本孤立して残ってしまった。

○ 更に現在の南翼の背面壁の南側に 北翼の画廊に対応する部屋を作るというのが、その当初の設計になっていたが、これも作られなかった。歴史家のツキュデイデスも言っている通り、南側にあるミュケナイ期の城壁は不可侵であって、若し当初の設計通りに実行すれば アテ−ナ・ニケ女神の神殿の領域に侵入する許りでなく、後部の画廊に対応する部屋はその角の所で 明らかにこのミュケナイ期の城壁を侵す虞れがあった。
○ 東面 つまりアクロポリスの丘の内側に向かって正面を持つ 大きい画廊を 2 つ、南北両翼の後方に作るというのも 当初の計画であった。南北共どちらにも 両端の壁柱の間に 円柱が 9 本建っていて、奥行きの深さは 19.50 m.というものであったが、これも亦建てられないままで終わった。特に南側のこの大画廊は、アルテミス・ブラウロニア女神の神殿の境内と これに接続しているグレイシス女神たちの神殿に 喰い込むことになっていた。

○ ペルクレスは 建築家のムネシクレスを任命して、この不朽の入口門の設計図を引かせた。ムネシクレスの願望としては このアクロポリスの丘の西側一ぱいの全体を塞いでしまうような 堂々たる構築物を作りたいという目論見であり、丘の上に素晴らしい形で聳えていた パルテノン神殿に拮抗し、これを補足するものとして 十分値打ちのあるものにしたいというものであった。しかし神官たちが頑強に抵抗し 保守的な気質を持った人々が 罪深いものとして反対したことから、この創造的な計画は実現に到ることが出来なかった。このようにして当初の計画は 変更を余儀無くされ 建物の大きさも削減されることとなったが、その上 建築が未だ進行している途中の B.C. 431 年に ペロポネソス戦争が勃発して、中止の止むなきに到った。修正されたこのプロジェクトは、主要部分について見れば 5 年の期間内に完成したことになる。

○ 細かい部分で あちらこちらが完成するに到っていない。中央にあるポルテイコの床が 滑らかになっていないし、内部に立っている イオニア式の円柱の土台石の周りには、今でも窪みが残っている。アクロポリスの丘の内側から見ると、中央の建物の壁の外側には 突起が沢山残っている。この突起は ロ−プを使って大理石塊を容易く運び上げるように 付けられたもので、後で削り取られる筈のものであった。この突起がこうして残ってしまったのは 全くの偶然のことであるが、嘗てこれを 故意に残したスタイルの特徴であると 誤って解釈したこともあった。

○ 部屋が 2 つある建物  ( page 37 図 01 - No.39)

○ <ピナコテカ>の部屋の北東に当たる所に アクロポリスの丘の北の壁面上に 南側と背面側とに向かって入口の付いた部屋が 2 つ 繋がってあるのが見出されている。この構築物が作られた目的と 何に使われたのかは、未だ判らないままである。

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