アテ−ナ・ニケ女神の神殿 the Temple of the Athena Nike
○ ニケ・ピュルゴスの高台
○ プロピュライア入口門の南翼にある 西に面した通路を通り抜けると、ニケ・ピュルゴスの高台のテラスがある。プロピュライア入口門の 正面に向かう登り道の曲り角の所にある 高台の北面に付いている階段を昇っても、このテラスに行けるようになっていて、この階段は上半分の部分だけが 今でも高台の北面に残っている。壁面がアクロポリスの丘の周りを取り囲んでいて、アクロポリスの丘の内で 壁面の外に喰み出している唯一の部分が、このテラスであった。
○ 古代ギリシャでは その国の力と経済繁栄の基盤が 主として海に置かれており、嘗てのミュケナイ時代には この高台は全体が城塞であった このアクロポリスの丘の門を守る砦であった許りでなく、敵や味方の近付くのを見守る見張り台でもあった。昔の所謂ミュケナイ式高台というのは キュクロップスたちの作ったとされる 巨大な外壁を持つ稜堡のことであるが、B.C.5 世紀になるとキモンが 多孔性石灰石のポロス石を積み上げて 岩盤を被覆し、少なくとも北面と西面とは 更にその上を大理石の厚板で覆っている。今あるこの高台は クラシカル期に出来たもので、突き出して難攻不落の天然の岩山となった この前史時代の塁壁のあった区画の上に、次々に構築されて出来た高台である。後代の語り伝えによれば、アエゲウス王は クノソス Cnossos(訳注 382)へ行った息子のテセウスの船が帰るのを待ち、欺かれて この高台から墜死したとされている。この高台の下の岩盤の南斜面には、アエゲウス王を祭った神殿があった。
○ この高台にある ニケ女神の神殿( page 37 図 01 - No.40)の土台石の下 凡そ 1.20 m.の深さの所に、ペイシストラトスの治世期の B.C. 6 世紀の第 2 四半期に建てられた 古い小型の神殿の遺跡があり、高台も昔はもっと低いものであったらしいことが、最近になって判った。この小型の神殿は 外側の寸法で 2.31 x 3.50 m.の面積を持った 長方形の簡素なケラ cella(訳注 383)であって、その前に 多孔性石灰石のポロス石で出来た祭壇が 2 つと 小さい戸外聖域の囲いであったと見られる 同じポロス石で出来た外壁とがあり、祭壇の内の 1 つには アテ−ナ・ニケ女神への奉献の彫り込みが その上に付けられていた。この祭壇と外壁とは マラトンの戦役とサラミスの海戦との間の B.C. 490 - 480 年頃に建てられたものであるに相違ない。
○ 翼のない勝利の女神 Wingless Victory の名称のいわれ
○ ア−ケイック期に作られた古い神殿の方も クラシカル期の今ある神殿の方もどちらも 有翼の勝利の女神ニケに献げられたものではなくて、その祭神は パルテノン神殿と同様に アテ−ナ女神である。ニケのように大きい翼を持たないこの女神を <ニケ・アプテロス女神(翼のない勝利の女神)>の神殿で礼拝された女神と パウサニアスが呼んだのは、この理由があってのことである。アテ−ナ女神が ニケとして祭られているので、通例は アテ−ナ・ニケの神殿と呼ばれている。このように2 つの神を 1 つにする混合形態は、昔は良く見られたことであって、健康の女神ヒュギアも アテ−ナ・ヒュギア女神という形で礼拝されていた。勝利が飛び去ってしまわないで 何時までも共に居残るようにと、アテネの人々が ニケ女神の両翼を切り落としてしまったとする説もあるが、これは恐らく 後年になって作られたものであろう。
○ この神殿の礼拝像は、神殿の建てられた更に 2 年後の B.C. 425 年に作られたもので、木製で 太古のクソアノン像のコピ−像であり、左手には 柘榴の実を、右手には 自分のヘルメットを持った 女神の礼拝像<クソアノン・アプテロン像 xoanon apteron(翼のない木製の彫像)>であったことは確かである。アテ−ナ女神像は この神殿では 勝利の女神として礼拝されていたのであるから 武装して戦う女神像であるべきところ、この像は 豊作のシンボルとして知られていた 柘榴を手に持っていたのであれば、その傍らに 戦利品を高く掲げた勝利の女神の礼拝像があったとしても それは不思議なことではないと考えられる。
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