○ 神殿の建築
○ アテネ軍がペルシャ軍を打ち破って 幾多の勝利を得ることが出来たのは、自分たちの都市の守護女神としての アテ−ナ女神のお蔭であるとして、女神への感謝の念を込めて このアクロポリスの丘の西のコ−ナ−に この神殿が建てられた。丘の外壁を作り 同僚のイクテイノスと共同でパルテノン神殿を造営した カリクラテスの作った設計に従って、ペルシャ軍の手で B.C. 480 年に破壊された 古代のものに代わる新しい神殿と 祭壇とを作るという都市国家アテネの決定が ペルシャとの平和条約が結ばれた B.C. 448 年にあったことが、B.C.449/448 年の布告の彫り込みに刻まれている。平らにカットされた左右対称の多孔性石灰石の塊が 平らな横の層になって 最初に積み上げられ、ずっと以前にあった祭壇一ぱいに拡がっている土台の幅を一層拡げ その土台を上方に引き上げる役目をしていたのであったが、その時点では 神殿は建てられなかった。中止の理由は良くは判っていないが、資金が足りなかったこととか ペルクレスとキモンの部下の者たちとの間に 政治上の内紛があったこととかに因るともされ、又翌年の B.C. 447 年にはパルテノン神殿の造営が始まって イクテイノスもカリクラテスもそちらに手を取られ、ペルクレスが中止を命じたのかも知れないともされている。
挿絵 06) アテ−ナ・ニケ神殿の復元図 |
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○ プロピュライア入口門の建設に引き続いて この神殿が実際に建てられたのは、当初の計画から 20 年許り後の B.C.427 - 424 年頃 つまり ペルクレスが死亡した 2 年後の頃と見られている。プロピュライア入口門が当初の設計通りに建てられ、その南翼にも 北翼の画廊に対応する部屋が作られていれば、この神殿は その障碍になったことであろう。併し この神殿が建てられた時には、ペロポネソス戦争 the Peloponnesian War(訳注 384)も始まっており、ペルクレスも死んでしまい、プロピュライア入口門の南翼に 画廊を作る計画もなくなっていて、この神殿を建てることについての障碍は もう無くなっていたのであった。
○ 神殿の外観
○ この神殿は ペルクレスの年代
に出来た他の建造物と同じく 総べ
てペンテリコス山産の大理石で出来
ている。床面積が 16 平方 m. に満たない 小型の神殿で、面積が 5.44 x 8.27 m.の大きさのステユロベイト(基台床)が一番上に付いた 4 段になった<クレピドマ>(基段)の上に建っていて、ケラ(内陣)に到っては 3.78 x 4.19 m.の大きさしかなかった。正面の方位がやや東の方を向いていて プロピュライア入口門からは独立した形になっており、この入口門南翼のポルテイコ(屋根付き柱廊玄関)がドリア式であるのに対して、この神殿はアクロポリスの丘の上にある 最古のイオニア式建造物である。高台のような基盤の上に 高々と聳え立っており、むやみに重たい構造物を背負い込んでいるかの如きプロピュライア入口門を 優雅に飾り立てる形になっている。
○ この神殿には 円柱が並んで立っている ペリステユレ peristyle(訳注 385−列柱廊)は無く、狭い方の東西の両端面に 高さが 4.07 m.ある 縦溝の付いた一本石のイオニア式の円柱が夫々 4 本づつ立っている <アムピプロステユレ amphiprostyle(訳注 386−両向拝式)・テトラスタイル tetrastyle(訳注 387−四柱式)>タイプの神殿であった。
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