○ <トラキオン thorakion>と呼ばれた胸壁のフリ−ズ
○ ニケ・ピュルゴスと呼ばれるこの高台の頂上にある 敷石が敷き詰められているプラットフオ−ムの区画は 狭くて、大勢の人が集まると 下に転落する人の出る危険もあった。そのために このプラットフオ−ムの 3 面沿いの縁に、この高台の 峻わしい側面を覆って 大理石の厚板で出来た胸壁を作り、周りを囲うこととなった。この胸壁の厚板は 高さが 1.50 m.あって、その外面には 丸彫りに近い程可成り深い 魅力的な浮き彫りが付いており、胸壁は冠刳り形の飾りが付いた 大理石の土台石の上に立っていた。下から見上げる人に良く見えるように 十分な高さがあり、その上少し 外側に傾いていた。
○ 浮き彫りに描かれているのは 翼のある勝利の女神のパレ−ドであって、有翼のニケの女神とアテ−ナ女神との 上品な像の彫刻で飾られていた。勝利の女神は 色々なヴァリエイションを持った形で描かれていて、身体を起こして トロフイ−を翳しているものもあれば、犠牲の牡牛を曳くものもあり、炬火を持っているものもあれば 足を挙げてそれを曲げ 素足で神殿に入るため サンダルの紐を解いているものもあった。アテ−ナ女神は、各面の端に離れて 誇らしげに腰掛け、有翼のニケ女神が 巣を作る燕のように あちこち往き来しているのを眺め、臣従の礼を受けている。その動作が生き生きしている上に 衣服に出来た襞がしなやかな身体に纏い付いていて、その結び付きが とても素晴らしく表現されている。この浮き彫りの内の 凡そ 1/3 が今でも残っていて、アクロポリスの美術館に展示されているが、これは B.C. 5 世紀末の最も有名な彫刻家の一人である カリマコス Callimachus(訳注 391)の作った作品である。安全上の理由から、このトラキオンの厚板の上に鉄格子がくっ付けられて 周りを取り巻いていたようである。
○ この胸壁が 何時頃に作られたのかは、明らかでない。B.C.5 世紀の最後の数年間に作られた 浮き彫りのスタイルを採ったものであることから見ても、この胸壁が作られたのは 恐らく神殿自体のフリ−ズの浮き彫りが作られた時より 後のことであったろうと思われる。ペロポネソス戦争の末期になると、アテネにとっては 勝算が殆どなかった上に、シシリ−島 Sicily(訳注 392)の遠征も 希望のない破局を迎えていた。デケレイア Deceleia (訳注 393)はスパルタ軍に占領され、短期間ではあったけれども アテネでも寡頭政治の執行官が勢力を得ていた。こういった時期に作られたにも拘わらず このフリ−ズにこれ程高尚で 陽気な雰囲気が見られていることからすれば、恐らく 2 つの海戦に勝って 将軍アルキビアデス Alcibiades(訳注 394)がアテネに凱旋し、彼を支持する民主主義者に 新しい希望を齎らした B.C.408 年頃に これらの浮き彫りが作られたものであったろうと思われる。併し この希望に満ちた幸福な期間は 極く短い間しか続かず、B.C.404 年には アテネの運命的な崩壊は、既に確実なものとなっていたのである。
○ 神殿の復元工事
○ 1687 年に パルテノン神殿が破壊された時になって、ニケ女神のこの神殿も亦 アクロポリスの丘を占拠していたトルコ軍の手で ばらばらに毀わされた。、モロシニ Morosini(訳注 395)の軍隊の攻撃から アクロポリスの丘に到る入り口を守るべく、プロピュライア入口門の前面に構築された 稜堡の壁の建築材として、この神殿の石材が使用された。 19 世紀に入って ギリシャ独立国家が創設された後の 1835 年になると この稜堡が取り毀わされて、トルコ軍の作った壁の中に閉じ込められてしまっていた 様々な建築部材とか 彫刻の装飾品の断片とかが出土し、何がどれであるのかが見分けられた後で、ドイツ人のロス Ross とシャウベルト Schaubert 及びオランダ人の建築家のハンセン Hansen の手で、旧の材料を使って 旧の場所に再建された。後年になって この高台が半ば荒廃して 危険な状況にあったために 神殿を全部徹底的にばらばらに取り毀わして 新しく復元し、同時に高台も強化することとなり、更に 100 年後の 第二次大戦前の 1935 - 1938 年になって、ギリシャの考古学部が この作業を行った。
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